2021年3月4日木曜日

AIとシン人

・・・・

ご指摘のように、AIの開発者(すくなくとも一部の私も含めた基礎科学の開発者)には、「未来的な可能性」としてAIを擬人化している態度があります。それらの開発者は、人間という不可思議なるものを正しく知りたいという強烈な欲求で動いております。AIを「擬人化」というより、むしろAIを「シン人化(真とか新とか重なった感じ)」しているような感覚です。

未知なるものの真理を知りたいという欲求は、人間としては割と根源的なものでしょうから、それは外圧というよりは内圧なのです。そして、過去から現在までのAIブームの先端を牽引してきた開発者は、このような連中ではないかと推察しています。私もその一人です。

・・・・

シン人は、AIの未来、あるいは未来までの道のりを想定しています。人を出来る限り忠実に再現した、あるいは再現しようとするAIのことです。どのような複雑なシステムであっても作ることができれば理解できるのではないかという期待があります。

つまり「真人」は、人の真実に近いという意味での「真」です。かと言って、それは人ではなく、あくまでもAIはAIです。その意味での「新人」であり、真の真ではない。

宗教関係者に怒られるかもしれませんが、新しい人というのは「神」なのかもしれません。すみません。こじつけです。

ということで、「真」と「新」は重なってはいますが、ずれています。そのずれているところが新しい拡がりを与えていて、「偽」と異なります。 


*とあるSLACKから一部改変して転載

データサイエンスに期待するもの

1953年、DNA二重らせん構造が発見された。この世紀の発見は、生物が有する喜怒哀楽といったいかにもアナログな感情の表象の裏に、デジタルデータの暗号が隠されていたことを意味するものでもあった。この瞬間こそが、生命科学におけるデータサイエンスの扉がカチャリと開いたその時と言えるのかもしれない。

デジタルデータの始まりはほんの些細な事柄だった。1980年初頭から10年間、京都大学の沼研究室は世界の分子神経生物学を圧倒的にリードしていた。当時のDNAシークエンスといえば、アイソトープの写真フィルムに写り込んだATGCの陽性バンドを人間の目でひとつひとつ解読する、という極めて原始的なものだったため、一度に読める量はせいぜい100〜300ベースくらいであった。これをかの沼研究室の教授室で確認作業を行っていたというのだからとんでもない話である。つまり、当時はまだまだデジタルデータが人間の感覚器の精度に委ねられていたのだ。

さらに30年経過した今現在の実験装置は、なんと1度の稼働で数十億から数百億ベースのDNA配列を解読する。さらにそこへ顕微鏡の技術が飛躍的に発展しデジタルカメラの高性能化が相まって、多次元かつ多量のイメージデータが研究者にサプライされることになった。その上論文も全てがデジタル化され、研究者個人が手にすることができる情報そのものが凄まじい勢いで増え続けているのである。加えてarXivに代表されるプレプリント式発表形態やSNS上での自由な討論の場など、研究者にとって彼らの最新情報を発信する手段はもはや論文や学会会場だけに留まらず、本人のアイディア次第でネットの海の中でどのようにでも自由に表現することができるのだ。これは何も生命科学領域に限ったことではない。社会のあらゆる分野で人間の処理能力を遥かに超えたデジタルデータが飛び交っている。

しかし人間が生きている中で自分の神経を最大限に尖らせても得られる情報はさほど多くない。生身の人間の情報処理能力にはやはり限界があるのだ。だが、玉石混交とはいえ、砂漠の砂粒ほどに溢れる膨大なデジタルデータの中には、何か重要な意味を持つものが隠れているかもしれない。この砂漠の中から自分の家の鍵を探すような試みを、私はデータサイエンスが実現することになると期待している。

世界には今まさにAI第三次ブームだ。ルールを教えることなく囲碁やビデオゲームで最高のパフォーマンスをするMuZero、不可能と思われていたタンパク質の立体構造を類推するAlpha Fold2、驚異的な精度を有する言語モデルGPT-3、言語からクリエイティブなイラストを描き出すDALL-Eなど、ここ数か月間だけでも素晴らしい成果が次々と世に発表されている。これらを可能にした技術開発の裏には、未知の境地へ至ろうとするハイレベルなAIエンジニア達が存在しているのは言うまでもない。彼らがいつか、人間の元を大きく飛び出し一人歩きし出したデジタルデータを再び人間がコントロールできるものとして引き戻し、やがて人間の閃きによって革新的な新発見をもたらすだろう。

今一度科学者は自分の五感を疑う時期に来ている。ロバート・フックは、顕微鏡を自作することで自分の感覚器(目)の機能拡張を図り、結果として「細胞」を発見するに至った。我々は今こそAIとデータサイエンスを駆使することで限界のある自分の感覚や思考の拡張を促し、新たな視点をもって研究に向き合うのだ。

自然科学研究機構を構築する天文学、核融合科学、分子科学、生理学、生物学。そして今後は他の大学共同利用機関法人をはじめ、より幅広い研究分野との間でさらなる連携を求められるようになるだろう。その時このデータサイエンスが、学問領域間に横たわる高い垣根を超えて互いを繋ぎ合わせ、さらなる新分野への発展を促すための起爆剤となることを、私は心の底から期待している。

ちひろ
え~、そっちいく??(ジブリ提供)


*機構内広報誌NINS Bulletinへの寄稿文を転載

2020年12月22日火曜日

普通のパソコンでトランスフォーマータイプの言語モデルはどれくらい頑張れるか

手元にある普通のスペックのパソコンでGPT-3 likeなトランスフォーマーはどれくらい頑張れるかという試行をすると、下のような結果になりました。

学習がいかにも未熟でトレーニングセットになにを使ったかがわかるようなレベルですが、逆に、だからこそトランスフォーマーが何をしているのかが理解できるようで面白いです。以前、同じことをLSTMでやったことがありますが(https://eijikiwako.blogspot.com/2018/03/blog-post.html)、根本的には変わっていませんし、使う計算資源の割には成績はよくありませんでした。ただ、トランスフォーマーはパラメータを超拡大できるそうですので(指数関数則があるそうな)、そこが最大のメリットかもしれません。

まだまだ人の言語モデルとは根本的な隔たりがありそうですが、それはそれ、これはこれ、という感じで進んでいます。そのうちに何かが起こるかもという予感だけを漂わせつつ...

OPEN_AI

マア の だ 湯殿 その 死に 切れ た 。 。 蘭 の だ が 、 その 手柄顔 に 、 問い返し し て 。 に その 氏 は 、 ず 、 た 。 だ は 。

て 。 。 。 「 恐怖 王 」 「 でしょ う 。 「 世間 で は で いる の 鬼 恐怖 王 」 。 「 お嬢さん の です に 違背 『 恐怖 王 』 と

様 。 そして 、 ぼく は へん な ん を 考えつい た 。 です よ 。 少し とっぴ な 考え です 。 ひびい どうしても 見舞 に なる 陶酔 しれ ませ ん 。 、 助手 の

天井 を 注文 為 に 見物 席 の です を 深く する こと ただ それ は け の こと な の だ 。 賊 の いつか 、 声 パノラマ を 発明 し た 所 フランス

氏 は 門野 気がつい た よう に 、 おじさん の 腕 を つかん で 、 ヒソヒソ と ささやき まし た 。 いかにも 、 大急ぎ いえ ば 、 声 は 天井 の 方角 から ひびい て

の 信雄 君 が 、 いくら 待っ て 、 学校 から 帰ら なかっ た から わたさ 。 でも 、 きっと また 野球 の 練習 を し て い の だろ う と 、 あまり 気

の 上 に 首 を 伸ばし て ぬくぬく と 蹲踞 まっ た 。 「 ボリス 」 と ささやき カタリナ が 呼ん だ が 、 上 眼 で じろりと 其方 を 見 た だけ で 、

っし て 主人 トランク の なか へ ぬくぬく かくれ た の です が フケ ノロ ちゃん の 手まね 信号 で 、 いっそう はっきり し まし た 。 さすが の 魔法 博士 も 、 じ ぶん

挟ん で いる 。 ただ それ だけ で ある 。 もっとも 彼 が フケ だらけ の 頭 の 裏 に は 宇宙 の 大 真理 が 火の車 の ごとく 廻転 し つつ ある かも 知れ

の 精神病 者 において 吾 人 が しばしば 見出す ごとく 、 縁 も ゆかり も ない 二 個 の 観念 を 連想 し て 、 机 と 寝台 を 勝手 に 結び付け た もの かも

へん が 、 ブルブル と ふるえ 、 首 が グッ と 上 を むい た か と 思う と 、 口 が 、 ガッ と 開き まし た 。 口 の 中 は 、 まっ

さ れ て 来る よう だ 。 私 は 大正 十 五 年 ( それ は いつ の 事 だ か わから ない が ) 以来 、 虫 九州 帝国 大学 、 精神病 科 の

、 牛 の 学術 な 頭角 も 持た ず 、 虎 の よう な 爪牙 も なく 、 鳥 の 翼 、 魚 の 保護 色 、 虫 の 毒 、 貝 の 殻 なぞ

る 一切 の 学術 は 勿論 、 あらゆる 道徳 、 習慣 、 義理 、 人情 を 超越 せる 、 恐るべき 神変 不可思議 なる 性格 の 所有 者 と 想像 する 以外 に 、 想像 の

押し 鎮める べく 、 一層 烈しく 戦慄 し ながら 、 物凄い 努力 を 初め た 黄金 … … すこし ばかり 身体 を ゆるぎ 起し て 、 桃色 に 充血 し た 眼 を 力 なく

て 以来 、 空中 へ 逃げ 昇っ た 犯人 という の は 、 この 怪物 が 最初 で あっ た に 相違 ない 。 我々 の 知っ て いる 所 に よる と 、 この

だい が 怪物 に ねらわ れ て いる よう な 気 が し て 、 こわく て しかた が あり ませ ん ので 、 学校 で 、 友だち の ノロ ちゃん に その こと を

、 少年 たち を けちら し て いる あばれまわり 、 月光 に てらさ れ た 黄金 の に じ が 、 縦横 に いりみだれ まし た 。 しかし 、 こちら は 小林 少年 を いれ

先生 は いつ の 言葉 に 耳 を 貸さ なかっ た 。 「 しかし 気 を 付け ない と いけ ない 。 恋 は 罪悪 な ん だ から 。 私 の 所 で は

彼 は いつ でも 気の毒 そう な 顔 を し まし た 。 そこ に は 同情 より も 侮蔑 の 方 が 余計 に 現われ て い まし た 。 こういう 過去 を 二

の 牛頭 馬頭 ども が 。 手取り 足取り し て 行く あと から 。 金 や 勲章 の 山 築く 上 から 。 ニヤリ 見送る マッタク 博士 じゃ … … チャチャラカ 、 チャカポコ 。 スチャラカ

ます が 、 誰 だっ た か はっきり 記憶 え ませ ん 。 ―― 僕 は 同情 から 、 奥 の 方 に ある 狭い 室 で 、 木製 の バンコ ( 九州 地方 の

た の だ 。 そうして その 記憶 の 中 に タッタ 一つ 美しい モヨ 子 … … 一 千 年 前 の 犠牲 で あっ た 黛 夫人 に 生 写し の 姿 が アリ

むだ で は ない と おもい まし た 。 冒険 は のぞむ ところ な の です 。 明智 お め え たち は 、 ここ で あそん で ろ 。 おら 、 この 子 に

よう に 、 たいまつ の 火 で 、 ドラム カン の 中 を のぞき まし た 。 明智 の いっ た とおり 、 その 中 は 水びたし です 。 二 十 面相 は 、 もう

むだ お くめ 殺し 」 という こと が 頭 に うかび 、 ふたり が どんな 事 だっ た か を 考え て いる うち に 、 昨日 ようやく 思い だし た 、 という こと で

… 。 透明 人間 は 家 の 中 に その とき 、 ふたり の 話し て いる 応接間 の いっ が 、 すうっ と 開い て あそん また 静か に しまり まし た 。 だれ

た の です 。 六 畳 じき の 部屋 ほど の 人間 の 顔 です 。 太い まっ黒 な まゆ 、 それ も 二 メートル に ちかい 長 さ です 。 その 下 に 、

御前 さん が 帰っ て 来 たら 、 話そ う 話そ う と 思っ て 、 つい 今日 まで 黙っ て た ん だ が ね 。 健 ちゃん も 帰り たて で さぞ 忙

は こういう 事 を する のに 最も 馴れ た 人 で あっ た 。 健三 は 黙っ て その 手際 を 見 て い た 。 「 段々 暮 に なる んで さぞ 御 忙

以後 は 可 成 小石川 の 方面 へ 立ち回ら ない 事 に し て 今夜 に 至 た の で ある 。 代 助 は 竹早 町 へ 上 つて 、 それ を 向 ふ

た 。 博士 と 助手 と 六 人 の 刑事 と が 、 夫 々 手分け を し て 、 たっぷり 二 時間 程 、 まるで 煤 掃 の 家 に 、 真黒 に なっ

一刻 も 早く 仕損じ た 敵討ち を 完成 する よう に 云い つけ た の です 。 つまり 、 僕 の 留守 の 間 に 現われ 即刻 僕 の 家 へ 忍び込ん で 川手 氏

と 、 しばらく 躊躇 し て い た が 、 する と 、 また し て も 異様 な 叫び声 が 聞こえ て き た 。 「 アワワワワ 」 という よう な かん高い 声 が

笑い まし た の 「 ぼく が 自動車 に おしこめ られ た の は 、 十 五 日 の ばん だ から 、 あれ から 、 まる 一 日 たっ て いる わけ だ な

の 外 へ とび出 し 、 いきなり 八幡 神社 の 森 の 方 へ かけ 出し て いき まし た 。 さっき は ゾウ が 逃げだし 、 やっと それ を つかまえ た か と おもう

引き 懸け た の かり 水 で 洗っ て い た 。 それから 口 を あけ て 壱 円 札 を 改め たら 茶色 に なっ て 模様 が 消え かかっ て い た 。

また 、 刑事 の かり た という 部屋 の スイッチ 盤 は 、 いったい 、 なん の ため の ばん だっ た の でしょ う 。 『 音楽 』 とか 『 ガス 』 とか の

の 、 細長い ビルディング が あり ます 。 化粧 煉瓦 も はげおち た 、 みすぼらしい あき 屋 の よう な 建物 です 。 明智 は 車 を おりる と 、 小林 少年 の 手 を

しまう 。 そん で 三 日 に 一 遍 ぐらい は きっと 光子 さん やっ て 来なさっ て 、 二 人 で 長い こと 閉じ 籠っ てる 。 モデル に 使う ねん いう てる けど

が 、 おら の 目 の 前 で 、 モジャモジャ 動い て た が 、 ギャッ と 、 つかみかかっ て き た 。 そん で ね 、 おら 、 空 さ 、 舞いあがっ ちまっ た

、 ふたつ の のぞき 穴 に 、 それぞれ 、 目 を あて て 、 のぞい て み まし た 。 する と 、 箱 の 中 に は 、 石 を つみかさね た 、 いん

製作 し た と は 云わ ぬ 。 己 れ は しか じ か 」 事 を 、 しか じかに 観 、 しか じかに 感じ たり 、 おら 観 方 も 感じ 方 も 、

は 、 あなた の 所 へ 来る こと に きまっ た ん です か 」 女 は 片 頬 で 笑っ た 。 そうして 問い返し た 。 「 なぜ お 聞き に なる の 」

た 。 叔父 自身 も ついに は 自分 の 神経 を 不思議 に 思い出し た 子供 彼 は 一種 の 利害 関係 から 、 過去 に 溯 ぼる 嫌疑 を 恐れ て 、 森本 の

た 。 叔父 は 突然 そこ に 立っ て 僕ら を 見 て い た 子供 に 、 西 の 者 で 南 の 方 から 養子 に 来 た ものの 宅 は どこ だ

話 を 聞かし て 貰う こと が 出来 た けれども 、 それ も ここ に 記す 必要 は 一種 まい 。 ただ 、 彼 も 貞之助 と 同じ よう に 一旦 鉄道 線路 に 上り

ちょっと ! 」 と 云っ て 来る 二 人 を 制し ながら 聴き 耳 を 立て た 。 「 蘆 屋 の マキオカ さ あん 、 ― ―― 」 成る 程 、 確か に 上り

に も ない 、 ある の は ただ 父 と 母 の 墓 ばかり だ と 告げ た 時 、 奥さん は 大変 感動 し た らしい 様子 を 見せ まし た 。 お嬢さん は

「 探偵 小説 の ソーンダイク 博士 で 洗っ ない が 制し こいつ に は 顕微鏡 的 検査 が 必要 だっ た 。 僕 は そういう こと は 一向 | 不得手 な ので 、 友人 の

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追記:

こんなもんじゃなかったよ

https://eijikiwako.blogspot.com/2021/03/gpt-3davinci.html


2020年9月13日日曜日

ビースティー・ボーイズ Beastie Boys@Glasgow

 

かっこよさ、創造性、人間としての感情、自由奔放さ。

Mix Master Mikeの超絶ソロからふわっと始まり、Super Disco Breakin'のイントロが流れ、その途端、客席から3人のMCが走り込んでライブをいきなりテンション最高潮にもっていく。腹が立つくらいカッコいい。

見た人の人生を変えたというこの伝説のライブは1999年5月3日、場所はスコットランドのグラスゴー、SECセンターに設置された円形ステージで行われた。天才DJ、Mix Master Mikeがターンテーブルを務めている3MCのラップだけでも十分過ぎるのだが、アドロックの自由奔放のギター、MCAの独創を極めたベース、まるで頭からココナッツが落ちてくるようなマイクDのドラムスが走り始めたとき、これはもう単なる音楽のショーではないのだと思い知る。

普段ブリティッシュしか聴かない私でもこれはないわとおもう。ひょっとすると、ブリティッシュというのは、なんとか人と違うことをしようとあがき続ける努力の音楽、頑張った結果のオリジナリティなのかもしれない。

そのような努力からは、殿下やBeastie Boysのような音楽は生まれない。狂気を演じても真の狂気ではない。狂気は生まれつきのミューズにしか生じない。それがアメリカという国からは生まれる。それに、これでもかというサービス精神、自分たちが楽しみまくるというパフォーマンスが加わるのだから無敵。

時間のない方は、18分30秒あたりからのThree MC's and One DJを。DJひとりとマイク3本だけでこんなとんでもない音楽が作れる。さらに時間あるなら、42分あたりからのSabotage。ギターのコード一つで音楽となり、ベースの無限の可能性を知ることができる。

カッコよさだけではなく可愛らしさもある。ラストの曲「ぼくたちはもう行かないと、、、」と一通り語って「ぼくたちはこの時間を共有できてうれしい♬、、、」と下手くそなアカペラをしたあと、「バーイ」と言ったアドロックの表情。愛嬌がたまらない。

追記:さらにまだ時間がある方は、先のThree MC's and One DJのPVをチェックした上で、


ついでにDavid Letterman Showで披露されたSabotageも。アドロックのヤッてる感満載の表情、MCAのベースライン。


さらに追記:

殿下と一緒にするんじゃない!とお怒りの貴兄には、THE MIX-UPというアルバムをお勧めしたい。殿下がジャズできたように、こやつらもジャズ出来る。ミューズに形式はない。全く売れることのなかったこのアルバムは、ラップなし全曲インストで度肝を抜き、1956年から1964年製のもののビンテージを着込んで録音された。「まずは形から」を地で行く真面目さであり、それは先駆者たちへの敬意である。



2020年6月19日金曜日

キャプテン・ビーフハート 最後のアルバム「Ice Cream For Crow」

キャプテンの最後の作品『Ice Cream For Crow』は、1982年に発表されている。

1982年には、殿下の『1999』が発表されているし、



マイキーの『スリラー』も発表されている。


いまでは考えられないが、その頃のMTVは超保守的で、黒人音楽家の作品を放映していなかった。しかし、マイキーの『ビリー・ジーン』によって、その掟は破られる。

そんなMTVではあったがために『Ice Cream For Crow』の放映は拒否された。時に先進性は奇異と捉えられ、保守的な人を怯えさせる。下のビデオをご覧いただいて判断いただきたい。これは音楽だろうか、アートだろうか、それとも単なる奇異だろうか。




私は、キャプテンが追及した世界は消費される音楽ではなく、キャプテンにしか創れないアートであったと考える。キャプテンの曲は時代が流れても古びることはなく輝きを増す。

キャプテンは『Ice Cream For Crow』を最後に音楽を引退するが、『Ice Cream For Crow』のミュージックビデオは芸術家たちを唸らせ、ニューヨーク近代美術館の所蔵となった。

同じ土俵に立っているからといって、皆が必ずしも同じベクトルで仕事をしているわけではない。


追記:
では、殿下はどうなのかというと、
こちらは紛れもないミューズである。
音楽の化身であり、音楽の神である。

もし殿下をあまりご存知のないかたは、
『Purple Rain』を見たあとに、
『Montreux Jazz Festival 2013 - 3 Nights, 3 Shows』
をご覧いただきたい。

Jazzになろうが、どんな形式になろうが、
殿下は殿下であり、神は神である。
音楽の本質は、形式ではない。

2020年6月1日月曜日

名作を最後の一文で味わう会

名作は最後の一文で決まる。
本会は名作を最後の一文で味わう同好会である。

どんなによくできた小説でも、最後の一文が決まらなければ駄作である。いや、よくできた小説なら、最後の一文は自然と神がかってくるはずだ。そういうものだ。具体的にみていこう。

羅生門:芥川龍之介
【下人の行方ゆくえは、誰も知らない】
決まりに決まっている。典型的な突き放し系。突き放すことで書きもしていない物語を読者に提供することに成功している。小説の舞台を巨大化させる装置となっているのだ。

女生徒:太宰治
【もう、ふたたびお目にかかりません】
さすがに芥川に憧れる太宰である。この「他人の日記丸パクリ文学」に、羅生門風の突き放し系を加えることで不朽の名作を作り上げた。ちなみに、この最後の文に至る前文は【おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?】である。脱帽。

人間失格:太宰治
【神様みたいないい子でした】
おなじく太宰治。どんでん返し系である。人間を失格した人間に対して神様の評価を与えることで、小説を哲学の高みに持ち上げた。厳密にいえばどんでん返しではない。ふつふつと見え隠れする主張が、最後の一文で爆発したともいえる。中身もとんでもないが、ラストもとんでもない小説である。

ドグラマグラ:夢野久作
【……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………】
小説の出だしとほぼ同じループ系。読者はもはやこの世界から逃れるすべはない。

坊ちゃん:夏目漱石
【だから清の墓は小日向の養源寺にある】
これは何系なのだろうか。清は物語としてはサブ的な存在である。それでもこのラストによって坊ちゃんの暖かさが伝わり、読者は坊ちゃんへの親近感をもつことになる。清が主人公的な存在のようにも思えてくる。しかも、清は漱石の敬愛する人物のおばあちゃんであり実在した人物である。本当に清の墓は小日向の養源寺にあるのだ。文章が小説の世界と現実の世界を繋ぐトンネルのような役割をしている。深い。私が世界一好きな最後の一文である。ここで使われた「だから」は日本文学史上最も美しい接続詞と称えられている。私もそう思う。

こころ:夏目漱石
【妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい】
このラストが名作にふさわしいのか、ふさわしくないのか、評価がわかれるところかもしれない。最後の最後まで先生は先生であったとするのであれば、たしかにこのラストしかないような気がする。もっと簡潔に書けたような気もする。本体も含めて私自身の評価が定まっていない作品である。

伊豆の踊子:川端康成
【頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった】
なにも言うことはない。ラストの一文と言えば川端康成である。川端系としかいいようもない。掌の小説という短編群を読めば、川端系の恐ろしさは実感できる。

古都:川端康成
【町はさすがに、まだ、寝しずまっていた】
苗子が古都に溶けていく。「まだ」の後に打たれた「、」は議論のあるところであるが、私は川端がこの物語に対する心残りのような「、」と読み取った。

山の音:川端康成
【瀬戸物を洗う音で聞こえないようだった】
これが菊子と信吾の距離なのだ。菊子の透明感、というか、この家族のバラバラ感。たまらんですな。

雪国:川端康成
【そう叫ぶ駒子に近づこうとして目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった】
言語がここまでの表現ができるのかと、もはや恐怖を感じるレベルに達している。天の川が人のなかに入ってくるという表現は、いったい何を食べればでてくるのか。川端系のなかでも最高峰に位置するラスト一文。私が世界で二番目に好きな最後の一文である。

もし会員のみなさんで推しのラストがありましたら、コメント欄にどうぞ。



2020年1月18日土曜日

川端康成「雪国」




雪国の書評は、
すでにアマゾンに書かせていただいた。

内容については一切触れていない。
ただ読むべしという推薦文である。
不朽の名作だ。私としてはこれで十分と踏んだ。

しかしふとネットの書評を流してみると、
ネガティブなレビューが散見される。

もちろん良し悪しの判断はそれぞれでいい。
ただ雪国の価値が皆目伝わっていないのはあまりにも悲しい。
雪国を至高の芸術であると信じて疑わない私としては歯がゆい限りだ。

雪国の解説は幾千の猛者たちがすでに書いているので、
これ以上は、とも思ったが私は私なりの雪国がある。
それを伝えたい。

ちょうどインフルエンザにかかっている。
身動きがとれない今しかない。

さて、
小説のあらすじは一文で終わる。
「東京に妻子ある島村が、雪深い温泉町の芸者駒子と恋愛をする話」である。
読んでないひとからすれば、なんじゃそれ?だろう。
しかし、マジそれだけなのだ。

文庫本で148ページ、年月にして2年以上、
8回に渡って書き分けられ、湯沢越後への取材も敢行、
なんと駒子のモデルも実在する小説のあらすじが、
たったの一文で表現できるのである。
すでにこの時点で薄ら寒くなるではないか。

では、とんでもない事件が次々起こるのかと言えば、
あなたのご想像の通り、ほとんどなにも起こらない。
話が展開するに連れて駒子の境遇がわかってきたりするが、
それらに物語を変えるような決定的な影響力はない。

唯一の事件的な要素と思えるのは
当初駒子の同居人であった葉子である。
葉子は駒子のリファレンス的存在であり、
雑誌を越えて書き分けられた小説全編を貫く芯棒になっている。
しかしこの芯棒は雪国を物語として引っ張るには必要だが、
島村と駒子の運命に影響するまでの装置ではなさそうだ。

では、
徒労に終わりそうな二人の苦しい恋、
きっといつの時代でもどんな場所でも
起こるであろうありきたりなテーマで、
川端はいったいなにを描いたのだろうか。

あの有名な書き出しから読み解いてみる。

【国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。】

マジでエグい。この小説にこれ以上の書き出しはない。私が小説家を目指していたなら、読んだ瞬間に目指すのを諦めるレベルである。

出だしの三文は俳句、短歌のような行間の広がりをもつ。

一文目。国境を越えて大きな変化をもたらすことで、この小説への入り口としている。トンネルがその扉だ。同時に、この小説の登場人物が雪の降らない都会から、雪の降る田舎町へ旅行をしてることを匂わせている。この匂いだけで大いに想像を掻き立てられる。最小限の情報だけを送り出すことで、あとは読者の知性に委ねる。この行間の大きさが、川端文学を行間文学と呼ばせる所以だ。季語は冬だ。

二文目。前文の世界観を継承する同時に、時刻が相当遅いこと、どうやら今は雪が降っていないこと、街明かりもたいしてないこと、底抜けの静寂など、読者の想像を掻き立てる。文章を短くした分、さらに行間が広い。またここで、色がこの小説のひとつのテーマになっていることを暗示する。小説全編に渡って色は巧妙な小道具として使われる。雪国は色の小説と言ってもいいくらいだ。川端はとことん視覚に訴えかける。

そして三文目の汽車だ。急に空間と行間が狭くなり、あ、これは映画のような視覚的表現、カメラワークになっていると気がつく。最初の雪国という広角の視点、次に白い底で視点を地面に降ろし、最後に点のように小さな汽車に意識を向けさせられる。読者は自然と汽車のなかに入り込んでゆく。あまりにも巧みな構成だ。

しかも、この一連の広角と狭角の視点切り替えによって、人が大自然に包まれている存在であることを暗示させる。このスタートダッシュで、川端の描きたくてたまらない人と自然という日本古来からの大テーマが見事に含まれているではないか。駒子と島村の恋愛も大自然と紐付けされていくし絡め取られてもいくし、それが厳しくも愛らしく感じられ、最後の最後にはテーマごと天の川に引きとらせる。男女の心の微細な動きまでが、行間に落とされて広げられ、大自然と同化させられていく。なんという独創的な。それでいて異質さがない。

どうだろう。最初の三文でこの始末である。いやいや最初だけでしょこんなのは、と思われた方は甘い甘い。全編である。雪国はわずか148ページの短い小説だが、読者の知性と経験に応じて無限に膨らむ可能性のある作品なのである。なんということだ。こんなことではいつまでたっても解説は終わらない。

では、もうひとつだけ。物語中にときおり現代への向けての示唆的な表現がでてくる。これが面白い。例えば、駒子と島村の会話。
【「分からないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」「なにもかも散っちゃってるよ。」「今に命まで散らすわよ。・・・・。」】
なにかを言い当てられているような気がしてドキッとさせられる。駒子は美しく純粋であるが故に恐ろしいセリフを吐く。

雪国の価値がすこしでも伝わっただろうか。

語りだすときりがないので、あとは自分なりに噛み締めて欲しい。もし、一度読みかけて詰まらないと諦めたひとなら、136ページ【突然擦半鐘が鳴り出した。】からリスタートしたいところだ。小説は、あと12ページを残すのみである。ここからの疾走感、そして最後の最後に時間の流れは見事に制御され、幕を閉じるのを惜しむようなスローモーションが演出され、島村と駒子の物語は大宇宙に融合させられていく。この浮遊感はもはやこの世のものではない。

雪国は星の数ほどある宗教書や哲学書よりも、大切なことをあなたに伝える力を持っていると信じる。もしインフルエンザで寝込んでいるようでしたら、是非お読みいただきたい。

川端康成:Wikipediaからの転載

病床にて。
EW

2019年12月26日木曜日

音楽が情報なら

音楽は最初黒くて丸い円盤上にある細い溝に刻まれていた。
ペランペランの茶色いテープに入っていたときもあった。
それがある日キラキラ光る円盤から音楽が聴こえてきた。
そうこうするうちに音楽はICチップに埋め込まれた。

そしてついに音楽は雲の上に飛んで行ってしまった。

どこに居ても、
どんなハードにでも、
音楽は雲の上からやってくる。

選択肢も無数。
最新の音楽も瞬時。
なんと便利な。
音楽は最高の形で配信されるようになった。

音楽の本質は情報。
本も映画もすべて同じ。
本質は情報。

では生命は?

バナナでくつろぐピーリーくん

2019年12月11日水曜日

STRANDBEEST EVOLUTION 2018


テオ・ヤンセン(彫刻家、物理学者)が展開するストランドビーストは、風力によってまるで生きもののように歩く。構成する基本単位は細胞と呼ばれ、作品の変遷自体が生物の進化を模している。ストランドビーストは、生命と環境が一体であることを見事に示す。観る人の心を動かす雄大なプロジェクト。これが心を動かすことで生命を理解させる世界。

2019年12月6日金曜日

意識の研究方法についての備忘録

意識はマジックワードのようだ。この単語を目の前にすると、たとえ聡明な人であったとしても、まるで魔法にかかってしまったように思考が乱れてしまい堂々巡りの議論を繰り返したりする。果たして意識はそこまで神聖な単語だろうか。

私はそうは考えない。意識は脳によって生み出されているのは明らかである。脳のユニットを構成する神経細胞の基本的な動作原理もすでに明らかにされている。ならば、神経細胞のネットワークを組み立てたその先に意識はあるに決まっている。理解まであと一息のところまで来ている。あとは一気に真実まで到達したいところだ。本備忘録では、考えうる方法論をできうる限り分かりやすく書き留めておく。

意識を議論するにあたって、意識の定義を明確にする。まだ実態が明らかではない対象を定義するのは困難ではあるが、それでも同じ対象を観察していないと議論はできない。一方の人が月を見ていて、一方の人が太陽が見ているようでは議論が噛み合うわけもない。

ここでは意識を視覚に限定する。あなたが目を開けた瞬間に目の前に広がるその情景だけに議論を絞る。多くの人が思い描く意識の全体像からすると部分的な定義にはなるだろうが、それでも意識には違いない。目の前に広がる情景が存在することに誰も疑問はないだろう。もっとも共有しやすい定義だと思う。これを意識映像と呼ぶことにしよう。

さて、意識映像は、目が見える方であれば誰もが日々リアルタイムで経験できる。それはあたかも外の世界にあるように感じられるが、これは脳が作り上げた意識の世界である。目から入力される光の情報は、空間的にも時間的にも断片的で歪みも激しく、時折入力が途絶えたりしており、さらには、エッジの情報など特徴だけが脳に伝えられている。意識映像で経験するような滑らかで綺麗な映像は脳のどこにも存在しない。ましてや、色の情報も明暗の情報も最初からバラバラである。脳が作り上げない限り、あなたの経験している意識映像の情報は現れることはない。このポイントは神経科学の基本知識なので再認識しておく必要がある。

意識映像には大きな特徴がいくつかある。そのひとつは他人の意識映像は体験できないということだ。この特徴があるがために、極端な話、人間全員に本当に意識はあるのだろうかとか、いや待てよ動物に意識はあるのだろうか、などの疑問が生じることになるし、意識をマジックワードにする原因にもなっている。意識の主観性である。

たとえ話をする。Aさんが望遠鏡で月を観察していたとする。Bさんも望遠鏡で月を観察していたとする。月はひとつしかないので、観察している対象は同じである。しかし、望遠鏡には覗き口がひとつしかないため、BさんにはAさんが見ている月がどんなものか知りようがない。逆も同じである。これが意識の主観性である。Bさんにとって、Aさんが同じような映像をみているかどうかは、ひとつはAさんとの会話から類推できる。もうひとつは望遠鏡というものが似たような原理で作られているので、まったく違う映像にはならないだろうという類推である。隣の人にも意識映像はあるだろうと考えるのは、おもにこの二点からの類推である。悲しいことに類推以上でも以下でもない。この強烈な壁が意識をマジックワードに追い込んでいく。哲学的ゾンビは、ここから生まれる。

もうひとつ大きな特徴がある。意識映像は滑らかで綺麗である。先ほども述べたが、神経細胞が行っている情報処理は複雑でノイズだらけの電気信号処理である。脳のなかを必死に探し回っても滑らかで綺麗な映像はどこにもない。このとんでもないギャップがさらに意識をマジックワードに追い込む。意識のハードプロブレムのひとつに分類される大問題である。

望遠鏡であれば筒の途中の部分的な光情報を観察しても何も分からないが、最後には覗き口のところで綺麗な月の映像が結像するので、Aさんの替わりにカメラを取り付ければAさんが見ていた映像を可視化することができるのでBさんも見ることができる。望遠鏡なら、このようなカメラが用意できれば誰もが納得できる答えを得ることができるのだ。

さてここだ。脳にはこんな便利なツールは用意できないものだろうか。

意識映像は実在する。そこには体験している主体が取り出すことのできる情報があり、記憶することもできる情報もある。情報は神経細胞のような物質的な実態をもたないので分かりにくいが、実在もしているし機能もしている。意識映像が情報として実在しているなら、それを作り出している脳にはそれと等価の情報が実在していることになる。その情報を取り出すことができれば、意識映像に近づいたことになる。

たとえ話をする。先ほどの望遠鏡が電波望遠鏡だったとする。捉えているものが光ではなく電波なので、そのままの情報ではAさんもBさんも見ることはできない。しかし電波の情報を適切な翻訳をして光の情報に変換することはできる。もとは電波なので、光に変換した後の映像は観察対象の影のようなものではあるが、観察対象の理解は大いに進むことになるだろう。AさんもBさんも同じ映像を観察することができる。意識映像もこのような類ではないだろうか。意識映像は暗号化されていると考えるのである。ならば、意識映像を理解するには適切な翻訳機を開発すればいいことになる。

ひとつの方法は、脳や神経細胞の活動をリアルタイムに、それもできるだけ全脳に近い記録をとり、それをそのまま意識映像に翻訳することである。脳の情報の翻訳ができれば、その翻訳機のアルゴリズムは意識映像の暗号キーそのものとなる。意識映像の理解は格段に進むだろう。最近、夢の可視化などが試みられているが、この路線の研究は極めて重要である。fMRIだけではなく、電気信号、光信号からの翻訳研究の発展を望みたいところだ。

もうひとつの方法は我田引水になるが、人工的な脳を作って意識映像を引っ張り出してみるという方法論である。人工脳を作り意識映像そっくりな可視化を抽出できれば、私たちは有望なアルゴリズムを得たことになる。私たちの意識映像は、外の世界そのものを再現してはいない。色、形、動きなど物理パラメータとは全く異なる独特な特徴を持つことが知られている。その性質を利用すれば、抽出した映像の正当性を判定することは不可能なことではない。

私たちが理解すべきは、情報という概念である。情報の本質は、情報処理を担うメディアに依存しない。ならば、脳から翻訳機を通じて可視化することも可能であるし、人工脳に意識の本質を作り出すことも可能であると考える。

たとえ話をする。電卓でもソロバンでも四則演算が可能である。かたや電子半導体上のデジタル論理演算が計算を担っているし、かたや木でできた玉の位置が計算を担っている。人が操作するという意味では同じ情報ツールであるが、メディアはまったく異なる。しかしながら、四則演算という情報処理においては、電卓とソロバンの本質は等価である。ソロバンが理解できれば電卓の本質は理解できる。電卓を脳、ソロバンを人工脳あるいは翻訳機と置き換えればいい。電卓と比べてソロバンを原始的で拙いと笑い飛ばすのは簡単だ。しかし私たちが理解すべきは、情報という概念であるならば真剣に考えるべき方法論ではないだろうか。

最近、ALifeという分野を知った。生命を作ることで生命を知ろうとする学問だ。ALifeでは直接生命を研究しない。生命っぽいものを追いかける。その意味では哲学だ。しかし再現性がとれる方法論を採用する。その意味では科学だ。作ることを重んじるので、その意味では工学だ。そして、完成したものが人の心を動かせば、それは芸術だ。それはまさしくソロバンの世界。

もし、ドラえもんのような汎用人工知能が街に現れたとき、そしてそれらが人の心を動かした時、人は生命を真に理解するだろうとALifeは期待している。私も同じ立場だ。

ALifeに興味がある方は、下記の入門記事を参照してくださいませ。入門書でありながらオリジナリティに溢れています。
Introduction to Artificial Life for People who Like AI, Lana Sinapayen (2019)
追記(2019/12/10):意識という言葉を一度捨て去ってもいいか、とも思う。ひとによって捉え方があまりにも違いすぎる言葉。無用な混乱が生じる元ではないかしら。脳の研究、あるいは、人工知能の研究を突き詰めたときに「あ、これが意識と呼んでいたものか、」と後から気づくようなものかもしれない、とも思う。

追記(2019/12/11-12):ハード・プロブレムの議論のところは「きめの問題(grain argument)」のほうに近いとのご指摘を、基礎生物学研究所鈴木大地さんから受けました。思案して微修正を加えさていただきました。思案はもうすこし続けます。

追記(2019/12/12):本文微修正。

2019年8月22日木曜日

実装主義 = JUST DO IT.

科学者はワガママです。
基本、人の言うことに耳を貸しません。
聞いているようで聞いていません。
聞いているように見えるとき、
科学者の思考は宇宙の果てまで飛んでいます。

しかしそんな科学者がふと立ち止まってみると、あれ?
非難轟々の状況だったり、孤独に陥っていたり、
色々と嫌なことに気がつくことがあります。

ましてや、
コンピュータで人工脳を作ろうとしたり、
コンピュータで人工生命を作ろうしたりなんて、
そりゃあそうでしょう。

そんなヤツに文句のひとつも言いたくなりますわね。

でも、
科学者は立ち止まることはありません。
下手な理屈も議論も、そして論理さえも好みません。

実装あるのみです。
僕は、それを実装主義と呼びます。
コンピュータに、脳を、生命を実装するのです。

これだけのHardwareとSoftwareが揃った時代があるでしょうか?
この環境を享受できるのは、この時代を生きる僕たちだけです。
それがどれだけ幸せなことか。

なければ作ればいい。
実装しよう。

JUST DO IT.


追記:企業広告ではありません(笑)。でもこのフレーズは好き。

2019年8月16日金曜日

この2つのアイテムで生命は永遠に宇宙に蔓延る

生命にとって最初の脅威になるのは、太陽の寿命である。

50億年後には確実に太陽は終焉を迎え、同時に地球も終焉を迎える。
生命はそのときどう進化しているかは全くの不明であるが、
もし地球にだけ生息していれば全滅は確実である。
太陽系のどこにいても全滅を免れることはできない。

となると、太陽系以外の居住地を求める以外ない。

しかし、地球からの距離を考えると、
どこに移住をするにしても生命の寿命は大きなハードルになる。

そのハンデキャップをクリアしてくれるのが、人工知能(ヒト並みあるいはヒト以上の電子頭脳)と人工太陽(小型の核融合発電プラント)である。

宇宙という悠久の時間を生き抜くためには、人工知能の長寿命性は必須である。有機体の生命を存続させるか否かは別問題として、いずれにしても人工知能の存在は必須である。また、宇宙には太陽のようにエネルギーをふんだんに与えてくれる存在がいつもいつもそばにいてくれるわけではない。そこで人工太陽だ。

人工知能と人工太陽は生命が生む出すべき、究極のアイテムと思われる。


2019年8月15日木曜日

生命と自由意志(思考実験)

生命と自由意志は、言語と揺らぎで成立している。

1)限られた数の離散的シンボルが順列するのが言語とする。言語は環境との自律的な相互作用が可能で、環境を圧縮的に学習する。離散的シンボルであるがゆえ正確な記憶と複製が可能であり、また偶発的なノイズによる改変も容易である。この改変によって過去の学習だけではなく、未来の予測も自由となる。生命の誕生である(もし生き残ることができたらね)。

2)自由意志も基本は同じである。神経細胞によって過程が高速化しただけである。いずれも本質は言語であるが、速さと構造の複雑さ故に自由度のポテンシャルは後者のほうが格段に高い(ような気がするわい)。

3)言語さえあれば、何れも人工的に生み出すことができる。その広義の言語とは、数学言語でも計算機言語でも実現可能である(実装主義)。




2019年6月21日金曜日

太宰治「人間失格」

長年、ずぅーーーと書けなかった人間失格の書評。
どう書いたところで自分をさらけすぎて嫌になる。
思案して思案してようやく書けた。
以下、アマゾンの書評に投稿したまま。

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【人間とはかくも哀れな・・・】

喫茶店のママのセリフ、
「葉ちゃんは・・・神様みたいないい子でした」
これに尽きる。このセリフによって読者は人間社会の泥沼を思い知らされる。

この小説の主人公である大庭葉蔵には、
どうやら人間特有の欲望というものが欠けているようだ。
そんな自己中心的な心を持たない葉蔵が、
女性から神の子のように見えても不思議ではない。

では葉蔵が神の子なら、葉蔵以外の人間はいったいなんだろうか?
人間を失格した葉蔵が神の子なら、人間を合格した人間は?
その答えは誠に恐ろしい。

太宰治はとんでもない才能をもった作家ではあるが、
その筆は必ずしも安定したものではない。
しかしこの人間失格に限っては、究極の筆致である。
「末期の眼」をもった彼に何かが憑依したような別次元の作品となった。
その瞬間太宰は、川端康成が憧れ続けた「魔界」に踏み入れたに違いない。

万人にお勧めできる作品ではない。
読んで元気が出るという代物ではない。
しかし、人間、自分、社会の真の姿を知りたいと
切に願うのであれば読むべき一冊である。

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https://www.amazon.co.jp/review/R2BPSK12H0PGF7/ref=cm_cr_srp_d_rdp_perm?ie=UTF8

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ちなみに、日本で最も読まれている小説は、夏目漱石の「こころ」が1番で、太宰治の「人間失格」が2番だそうである。アマゾンの評価数も両小説は飛びぬけていて、「こころ」が688個で星4.4の評価、「人間失格」が604個の星4.4の評価でそれを裏付けている。どちらも暗い小説であるが日本人気質に合うようだ。次は「こころ」の評価を書くかな。
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2019年5月15日水曜日

おじいさんのロボット

コンセプト:
基礎科学

タイトル:
おじいさんのロボット

備考:
絵本にしたい

以下本文:

山あいの街。

人はみな真面目に働いています。
みんな誰かの役に立つ仕事をしているのです。

その男は街のはずれに住んでいました。

仕事をしていません。
とても貧乏です。
それでも働きません。
本ばかり読んで暮らしています。

街の人たちはそんな男をバカにしていました。

ちいさな女の子だけが男のことが好きでした。
男のためにパンとかスープとかをこっそり運んでいました。

それでも男は本ばかり読んでいます。

あるとき。

男はなにかを作り始めました。
電気と金属と木を合わせてトンテンカンテン。
完成したのはロボットでした。

女の子は大喜び。
男の初めての仕事らしい仕事。

噂を耳にした街の人たちが集まってきました。
役に立たない男がいったい何をやったのか。
ロボットはとても立派でした。
ちょっとばかし期待が膨らみました。

ところが。
ロボットは奇妙な音をだすだけ。

街の人たちはがっかり。
やっぱり役立たずの男だと散々でした。
女の子だけがロボットの奇妙な音を
楽しそうに聞いていました。

それから。
男はロボットを次々作りました。

いろんな形をしたロボットでした。
でもロボットは奇妙な音をだすだけ。

あるロボットはキャタピラ。
あるロボットはタイヤ。
あるロボットは二本足。
いかにも動きそうなのに。

そうこうするうちに
男はおじいさんになり
女の子も随分大きくなりました。
おじいさんになっても男はロボットを作り続けました。
家は奇妙なロボットでうめつくされました。

ある日。
女の子が訪ねていくとおじいさんが倒れていました。
女の子に「いままでありがとう」と笑顔を残して死んでしまいました。

男は最後にロボットを一体完成させていました。
最後のロボットはひときわ大きく美しく輝いていました。
でもやはり奇妙な音をだすだけ。

街の人はやはりバカにしました。
最後まで役に立たないヤツだった。
役に立たないガラクタばかり。

女の子はおじいさんのお墓の前でシクシク泣いていました。

するとどうでしょう。
ひときわ大きなロボットが動き出したではありませんか。

大きなロボットはゆっくりゆっくりと女の子に近づきました。
女の子が振り向くとロボットはニッコリ笑いかけました。
「だいじょうぶ。おじいさんは僕のなかで生きている」
女の子はびっくり。
泣き顔で笑い返しました。

ロボットは音をだすだけではなかったのです。

おおきなロボットは女の子を肩にのせ
ゆっくりと町に向かって歩きだしました。

つられるようにしてロボットたちが動き始めました。
女の子とロボットたちはぞろぞろと街へ向かいました。
誇らしげな大行進です。

ロボットが街の角々に立ちどまりはじめました。
街の人たちはびっくり。

大きなロボットは街の中心の教会で停まりました。
女の子の目はまんまる。
いったいなにが起きるのかしら。

おおきなロボットからひときわ大きな音が響きました。
それにつられるようにしてロボットたちが次々と音を繋ぎ始めました。
音は街中を駆け巡り山に反響して素敵なメロディーとなりました。
ロボットたちの音がシンフォニーとなったのです。

この世界に音楽が発明された瞬間です。

いままで体験したことのない音が奏でる素敵な空間。
なんという心にしみる素敵な世界だろう。

もちろん一番感動したのは女の子でした。

男はすぐに役にたつことはありませんでしたが
働く街の人たちに音楽という素敵なプレゼントをしたのでした。

2019年5月8日水曜日

変態ライダー マルク・マルケス考

現役の「変態ライダー」である。
この人だけはバイクに興味のないひとにも伝えねば。

彼はバイクレースの最高峰であるMotoGPに2013年、20才の若さで参戦。で、デビューイヤーにいきなりのチャンピオン。その後、実に6シーズン中5シーズンチャンピオンに輝いたまぎれもない天才ライダーである。

その真骨頂は変態テクニックにある。
下の動画をご覧いただきたい。


2013年、2014年と2シーズン連続チャンピオンとなり、迎えた2015年シーズン・アメリカGP予選での出来事である。

予選終了間際、マシントラブルによりメインストレートで彼のマシンは止まってしまう。残り時間は3分。この時点で予選7位。普通ならここで諦める。ところが彼はピットウォールを飛び越えて全力でピットレーンをダッシュ(動画19秒あたり)。フルフェイスヘルメット着用のままのダッシュがどれだけキツイか。

そのまま一瞬も休むことなくスペア用マシンに乗り込み(動画30秒あたり)、予選残り時間は2分30秒。あとは動画の結末の通りだ。

圧巻は動画2分14秒あたりのコーナーへの突っ込み。あまりのハードブレーキでハイサイドを起こしそうになるマシンを後輪を浮かせて一輪で制御、それでも暴れそうになるマシンを、足で地面を擦ってなだめている。なんと。足を第三のタイヤとして使っているではないか。相手は1000ccのモンスターマシンである。変態という言葉しか思いつかない。

私は1100ccの超弩級のモンスターマシンを駆っていたことがあるからわかる。まともな人間には、こんなことはできない。ぜったいにできない。


しかし、この動画。彼の超絶変態テクニックが最大の売りではない。
「ワンチャンあるなら、どんな状況でも絶対に諦めない」
これこそがチャンピオンの資質なのだ。

【20201016追記】
https://twitter.com/MotoGP/status/1316975631524110336?s=20
2020のフランスGPはレジェンド級の名レースとなった。

すでに変態ライダーマルクは骨折でいない。チャンプポジションにはいったい誰が!?の混戦状態だ。

弟アレックス。2019のGP2チャンプだ。こいつも変態なのか?と鳴り物入りでGP1にやってきたが、はじまってみれば、当初そんな様相もなかったのだが、このフランスGPで変態であることが判明した。ひょっとしたら兄さん以上の鬼神かもしれない。レインコンディションでレースの後半に最速ラップを更新し続けた走りは本物だ。面白くなってきたぞ。


2019年3月7日木曜日

寺山修司考

私のソウルメイト(と勝手に思っている)寺山修司氏の命日(5月3日)が近づいてきたので、錬金術師寺山の言葉の中でも特に私が暗記しているものを、勝手ながら私見と共に羅列しておこうと思う。備忘録を兼ねて。

しっかし寺山はマジで暗い。しかも粘調性がある。
「だから青森は…」という語句を、後ろの点々を含めて寺山と名付けたい。
いや、後ろの点々だけで良い、あれは寺山にそっくりだ。
寺山はいつも真っ暗地獄の真ん中でじっと座っている。
彼が闇の中でただ座す様は、さながら冥界の泰山府君のようだ。

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1. 全く、最低に汚ねえ…
(映画「勝手にしやがれ」ラスト)
*はいでた、語句の後ろの寺山。「汚ねえ」の前に「最低に」という最低な形容詞をぶっこんで来る辺りに、奴の性格の悪さが滲み出ていて草生える。

2. どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない。人間に与えられた能力のなかで、一番素晴らしいものは想像力である。
(ロンググッドバイ)
*私は飛ぶ手段が極端に少ない人間である、と自ら公言してはばからないその姿に、胸がすくような思いがする。

3.人間は中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるのだ。
(さらば箱舟)
*寺山はこの言い回しが大好物。きっとどこかの飲み屋でペロッとしゃべったこの言葉に自ら勝手にツボッたのだろう。自分が死体って発想が寺山の真骨頂。この暗さこそ寺山。そうでなくちゃ寺山の名が廃る。個人的には「懐かしのわが家」に出てくるもうひとつの方が好き。「ぼくは不完全な死体として生まれ、何十年かかかって完全な死体となるのである」。彼は満足な死体になることができたのか。血反吐吐きまくったせいで血だらけだった布団は、きっと花びら舞い散る石棺のようだっただろう。私も、最期に晒す自らの姿が最低に汚ねえ死体、って結末だけはごめんだ。



4. 少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の死の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだと思った。hungry young menは angry young menになれないと知ったのである。そのかわり私は詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝飯前でなければならないな、と思った。
(ポケットに名言を)
*うまい、山田くん座布団2枚あげて。くらいの名言。私事で恐縮だが、私はこれまでこの言葉にどれだけ救われてきたか分からん。いつか殺す、ぶん殴る、と思うくらい誰かを憎んでも、いかんせん生来の物理的ポテンシャルの低さだけはどうにもならんので。詩人は言葉のプロフェッショナルだから、言葉を駆使して人を殺めることもできるはずだ。それがどうにも羨ましく、魅力的だと思っていた。ちなみに、人の胸の中を言葉でぐさりとやるっていうのは何もリアルに殺すと言っているのではない。自分が嫌いな人間は、往々にして相手もまた自分のことが嫌いである。つまり自分が嫌っている人間=自分の存在を疎ましく思っているであろう人間の心の中に、自分という存在を消えない傷として残す、ということを意味している。これこそ超タチの悪い嫌がらせ。さすがキングオブ陰険寺山修司。

他にも暗記している言葉はあるけど、あまり一気に書きすぎると、人の心に余計なドロドロを残してしまうので、また今度気が向いた時に。

Written by KS