2020年12月22日火曜日

普通のパソコンでトランスフォーマータイプの言語モデルはどれくらい頑張れるか

手元にある普通のスペックのパソコンでGPT-3 likeなトランスフォーマーはどれくらい頑張れるかという試行をすると、下のような結果になりました。

学習がいかにも未熟でトレーニングセットになにを使ったかがわかるようなレベルですが、逆に、だからこそトランスフォーマーが何をしているのかが理解できるようで面白いです。以前、同じことをLSTMでやったことがありますが(https://eijikiwako.blogspot.com/2018/03/blog-post.html)、根本的には変わっていませんし、使う計算資源の割には成績はよくありませんでした。ただ、トランスフォーマーはパラメータを超拡大できるそうですので(指数関数則があるそうな)、そこが最大のメリットかもしれません。

まだまだ人の言語モデルとは根本的な隔たりがありそうですが、それはそれ、これはこれ、という感じで進んでいます。そのうちに何かが起こるかもという予感だけを漂わせつつ...

OPEN_AI

マア の だ 湯殿 その 死に 切れ た 。 。 蘭 の だ が 、 その 手柄顔 に 、 問い返し し て 。 に その 氏 は 、 ず 、 た 。 だ は 。

て 。 。 。 「 恐怖 王 」 「 でしょ う 。 「 世間 で は で いる の 鬼 恐怖 王 」 。 「 お嬢さん の です に 違背 『 恐怖 王 』 と

様 。 そして 、 ぼく は へん な ん を 考えつい た 。 です よ 。 少し とっぴ な 考え です 。 ひびい どうしても 見舞 に なる 陶酔 しれ ませ ん 。 、 助手 の

天井 を 注文 為 に 見物 席 の です を 深く する こと ただ それ は け の こと な の だ 。 賊 の いつか 、 声 パノラマ を 発明 し た 所 フランス

氏 は 門野 気がつい た よう に 、 おじさん の 腕 を つかん で 、 ヒソヒソ と ささやき まし た 。 いかにも 、 大急ぎ いえ ば 、 声 は 天井 の 方角 から ひびい て

の 信雄 君 が 、 いくら 待っ て 、 学校 から 帰ら なかっ た から わたさ 。 でも 、 きっと また 野球 の 練習 を し て い の だろ う と 、 あまり 気

の 上 に 首 を 伸ばし て ぬくぬく と 蹲踞 まっ た 。 「 ボリス 」 と ささやき カタリナ が 呼ん だ が 、 上 眼 で じろりと 其方 を 見 た だけ で 、

っし て 主人 トランク の なか へ ぬくぬく かくれ た の です が フケ ノロ ちゃん の 手まね 信号 で 、 いっそう はっきり し まし た 。 さすが の 魔法 博士 も 、 じ ぶん

挟ん で いる 。 ただ それ だけ で ある 。 もっとも 彼 が フケ だらけ の 頭 の 裏 に は 宇宙 の 大 真理 が 火の車 の ごとく 廻転 し つつ ある かも 知れ

の 精神病 者 において 吾 人 が しばしば 見出す ごとく 、 縁 も ゆかり も ない 二 個 の 観念 を 連想 し て 、 机 と 寝台 を 勝手 に 結び付け た もの かも

へん が 、 ブルブル と ふるえ 、 首 が グッ と 上 を むい た か と 思う と 、 口 が 、 ガッ と 開き まし た 。 口 の 中 は 、 まっ

さ れ て 来る よう だ 。 私 は 大正 十 五 年 ( それ は いつ の 事 だ か わから ない が ) 以来 、 虫 九州 帝国 大学 、 精神病 科 の

、 牛 の 学術 な 頭角 も 持た ず 、 虎 の よう な 爪牙 も なく 、 鳥 の 翼 、 魚 の 保護 色 、 虫 の 毒 、 貝 の 殻 なぞ

る 一切 の 学術 は 勿論 、 あらゆる 道徳 、 習慣 、 義理 、 人情 を 超越 せる 、 恐るべき 神変 不可思議 なる 性格 の 所有 者 と 想像 する 以外 に 、 想像 の

押し 鎮める べく 、 一層 烈しく 戦慄 し ながら 、 物凄い 努力 を 初め た 黄金 … … すこし ばかり 身体 を ゆるぎ 起し て 、 桃色 に 充血 し た 眼 を 力 なく

て 以来 、 空中 へ 逃げ 昇っ た 犯人 という の は 、 この 怪物 が 最初 で あっ た に 相違 ない 。 我々 の 知っ て いる 所 に よる と 、 この

だい が 怪物 に ねらわ れ て いる よう な 気 が し て 、 こわく て しかた が あり ませ ん ので 、 学校 で 、 友だち の ノロ ちゃん に その こと を

、 少年 たち を けちら し て いる あばれまわり 、 月光 に てらさ れ た 黄金 の に じ が 、 縦横 に いりみだれ まし た 。 しかし 、 こちら は 小林 少年 を いれ

先生 は いつ の 言葉 に 耳 を 貸さ なかっ た 。 「 しかし 気 を 付け ない と いけ ない 。 恋 は 罪悪 な ん だ から 。 私 の 所 で は

彼 は いつ でも 気の毒 そう な 顔 を し まし た 。 そこ に は 同情 より も 侮蔑 の 方 が 余計 に 現われ て い まし た 。 こういう 過去 を 二

の 牛頭 馬頭 ども が 。 手取り 足取り し て 行く あと から 。 金 や 勲章 の 山 築く 上 から 。 ニヤリ 見送る マッタク 博士 じゃ … … チャチャラカ 、 チャカポコ 。 スチャラカ

ます が 、 誰 だっ た か はっきり 記憶 え ませ ん 。 ―― 僕 は 同情 から 、 奥 の 方 に ある 狭い 室 で 、 木製 の バンコ ( 九州 地方 の

た の だ 。 そうして その 記憶 の 中 に タッタ 一つ 美しい モヨ 子 … … 一 千 年 前 の 犠牲 で あっ た 黛 夫人 に 生 写し の 姿 が アリ

むだ で は ない と おもい まし た 。 冒険 は のぞむ ところ な の です 。 明智 お め え たち は 、 ここ で あそん で ろ 。 おら 、 この 子 に

よう に 、 たいまつ の 火 で 、 ドラム カン の 中 を のぞき まし た 。 明智 の いっ た とおり 、 その 中 は 水びたし です 。 二 十 面相 は 、 もう

むだ お くめ 殺し 」 という こと が 頭 に うかび 、 ふたり が どんな 事 だっ た か を 考え て いる うち に 、 昨日 ようやく 思い だし た 、 という こと で

… 。 透明 人間 は 家 の 中 に その とき 、 ふたり の 話し て いる 応接間 の いっ が 、 すうっ と 開い て あそん また 静か に しまり まし た 。 だれ

た の です 。 六 畳 じき の 部屋 ほど の 人間 の 顔 です 。 太い まっ黒 な まゆ 、 それ も 二 メートル に ちかい 長 さ です 。 その 下 に 、

御前 さん が 帰っ て 来 たら 、 話そ う 話そ う と 思っ て 、 つい 今日 まで 黙っ て た ん だ が ね 。 健 ちゃん も 帰り たて で さぞ 忙

は こういう 事 を する のに 最も 馴れ た 人 で あっ た 。 健三 は 黙っ て その 手際 を 見 て い た 。 「 段々 暮 に なる んで さぞ 御 忙

以後 は 可 成 小石川 の 方面 へ 立ち回ら ない 事 に し て 今夜 に 至 た の で ある 。 代 助 は 竹早 町 へ 上 つて 、 それ を 向 ふ

た 。 博士 と 助手 と 六 人 の 刑事 と が 、 夫 々 手分け を し て 、 たっぷり 二 時間 程 、 まるで 煤 掃 の 家 に 、 真黒 に なっ

一刻 も 早く 仕損じ た 敵討ち を 完成 する よう に 云い つけ た の です 。 つまり 、 僕 の 留守 の 間 に 現われ 即刻 僕 の 家 へ 忍び込ん で 川手 氏

と 、 しばらく 躊躇 し て い た が 、 する と 、 また し て も 異様 な 叫び声 が 聞こえ て き た 。 「 アワワワワ 」 という よう な かん高い 声 が

笑い まし た の 「 ぼく が 自動車 に おしこめ られ た の は 、 十 五 日 の ばん だ から 、 あれ から 、 まる 一 日 たっ て いる わけ だ な

の 外 へ とび出 し 、 いきなり 八幡 神社 の 森 の 方 へ かけ 出し て いき まし た 。 さっき は ゾウ が 逃げだし 、 やっと それ を つかまえ た か と おもう

引き 懸け た の かり 水 で 洗っ て い た 。 それから 口 を あけ て 壱 円 札 を 改め たら 茶色 に なっ て 模様 が 消え かかっ て い た 。

また 、 刑事 の かり た という 部屋 の スイッチ 盤 は 、 いったい 、 なん の ため の ばん だっ た の でしょ う 。 『 音楽 』 とか 『 ガス 』 とか の

の 、 細長い ビルディング が あり ます 。 化粧 煉瓦 も はげおち た 、 みすぼらしい あき 屋 の よう な 建物 です 。 明智 は 車 を おりる と 、 小林 少年 の 手 を

しまう 。 そん で 三 日 に 一 遍 ぐらい は きっと 光子 さん やっ て 来なさっ て 、 二 人 で 長い こと 閉じ 籠っ てる 。 モデル に 使う ねん いう てる けど

が 、 おら の 目 の 前 で 、 モジャモジャ 動い て た が 、 ギャッ と 、 つかみかかっ て き た 。 そん で ね 、 おら 、 空 さ 、 舞いあがっ ちまっ た

、 ふたつ の のぞき 穴 に 、 それぞれ 、 目 を あて て 、 のぞい て み まし た 。 する と 、 箱 の 中 に は 、 石 を つみかさね た 、 いん

製作 し た と は 云わ ぬ 。 己 れ は しか じ か 」 事 を 、 しか じかに 観 、 しか じかに 感じ たり 、 おら 観 方 も 感じ 方 も 、

は 、 あなた の 所 へ 来る こと に きまっ た ん です か 」 女 は 片 頬 で 笑っ た 。 そうして 問い返し た 。 「 なぜ お 聞き に なる の 」

た 。 叔父 自身 も ついに は 自分 の 神経 を 不思議 に 思い出し た 子供 彼 は 一種 の 利害 関係 から 、 過去 に 溯 ぼる 嫌疑 を 恐れ て 、 森本 の

た 。 叔父 は 突然 そこ に 立っ て 僕ら を 見 て い た 子供 に 、 西 の 者 で 南 の 方 から 養子 に 来 た ものの 宅 は どこ だ

話 を 聞かし て 貰う こと が 出来 た けれども 、 それ も ここ に 記す 必要 は 一種 まい 。 ただ 、 彼 も 貞之助 と 同じ よう に 一旦 鉄道 線路 に 上り

ちょっと ! 」 と 云っ て 来る 二 人 を 制し ながら 聴き 耳 を 立て た 。 「 蘆 屋 の マキオカ さ あん 、 ― ―― 」 成る 程 、 確か に 上り

に も ない 、 ある の は ただ 父 と 母 の 墓 ばかり だ と 告げ た 時 、 奥さん は 大変 感動 し た らしい 様子 を 見せ まし た 。 お嬢さん は

「 探偵 小説 の ソーンダイク 博士 で 洗っ ない が 制し こいつ に は 顕微鏡 的 検査 が 必要 だっ た 。 僕 は そういう こと は 一向 | 不得手 な ので 、 友人 の

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追記:

こんなもんじゃなかったよ

https://eijikiwako.blogspot.com/2021/03/gpt-3davinci.html


2020年9月13日日曜日

ビースティー・ボーイズ Beastie Boys@Glasgow

 

かっこよさ、創造性、人間としての感情、自由奔放さ。

Mix Master Mikeの超絶ソロからふわっと始まり、Super Disco Breakin'のイントロが流れ、その途端、客席から3人のMCが走り込んでライブをいきなりテンション最高潮にもっていく。腹が立つくらいカッコいい。

見た人の人生を変えたというこの伝説のライブは1999年5月3日、場所はスコットランドのグラスゴー、SECセンターに設置された円形ステージで行われた。天才DJ、Mix Master Mikeがターンテーブルを務めている3MCのラップだけでも十分過ぎるのだが、アドロックの自由奔放のギター、MCAの独創を極めたベース、まるで頭からココナッツが落ちてくるようなマイクDのドラムスが走り始めたとき、これはもう単なる音楽のショーではないのだと思い知る。

普段ブリティッシュしか聴かない私でもこれはないわとおもう。ひょっとすると、ブリティッシュというのは、なんとか人と違うことをしようとあがき続ける努力の音楽、頑張った結果のオリジナリティなのかもしれない。

そのような努力からは、殿下やBeastie Boysのような音楽は生まれない。狂気を演じても真の狂気ではない。狂気は生まれつきのミューズにしか生じない。それがアメリカという国からは生まれる。それに、これでもかというサービス精神、自分たちが楽しみまくるというパフォーマンスが加わるのだから無敵。

時間のない方は、18分30秒あたりからのThree MC's and One DJを。DJひとりとマイク3本だけでこんなとんでもない音楽が作れる。さらに時間あるなら、42分あたりからのSabotage。ギターのコード一つで音楽となり、ベースの無限の可能性を知ることができる。

カッコよさだけではなく可愛らしさもある。ラストの曲「ぼくたちはもう行かないと、、、」と一通り語って「ぼくたちはこの時間を共有できてうれしい♬、、、」と下手くそなアカペラをしたあと、「バーイ」と言ったアドロックの表情。愛嬌がたまらない。

追記:さらにまだ時間がある方は、先のThree MC's and One DJのPVをチェックした上で、


ついでにDavid Letterman Showで披露されたSabotageも。アドロックのヤッてる感満載の表情、MCAのベースライン。


さらに追記:

殿下と一緒にするんじゃない!とお怒りの貴兄には、THE MIX-UPというアルバムをお勧めしたい。殿下がジャズできたように、こやつらもジャズ出来る。ミューズに形式はない。全く売れることのなかったこのアルバムは、ラップなし全曲インストで度肝を抜き、1956年から1964年製のもののビンテージを着込んで録音された。「まずは形から」を地で行く真面目さであり、それは先駆者たちへの敬意である。



2020年6月19日金曜日

キャプテン・ビーフハート 最後のアルバム「Ice Cream For Crow」

キャプテンの最後の作品『Ice Cream For Crow』は、1982年に発表されている。

1982年には、殿下の『1999』が発表されているし、



マイキーの『スリラー』も発表されている。


いまでは考えられないが、その頃のMTVは超保守的で、黒人音楽家の作品を放映していなかった。しかし、マイキーの『ビリー・ジーン』によって、その掟は破られる。

そんなMTVではあったがために『Ice Cream For Crow』の放映は拒否された。時に先進性は奇異と捉えられ、保守的な人を怯えさせる。下のビデオをご覧いただいて判断いただきたい。これは音楽だろうか、アートだろうか、それとも単なる奇異だろうか。




私は、キャプテンが追及した世界は消費される音楽ではなく、キャプテンにしか創れないアートであったと考える。キャプテンの曲は時代が流れても古びることはなく輝きを増す。

キャプテンは『Ice Cream For Crow』を最後に音楽を引退するが、『Ice Cream For Crow』のミュージックビデオは芸術家たちを唸らせ、ニューヨーク近代美術館の所蔵となった。

同じ土俵に立っているからといって、皆が必ずしも同じベクトルで仕事をしているわけではない。


追記:
では、殿下はどうなのかというと、
こちらは紛れもないミューズである。
音楽の化身であり、音楽の神である。

もし殿下をあまりご存知のないかたは、
『Purple Rain』を見たあとに、
『Montreux Jazz Festival 2013 - 3 Nights, 3 Shows』
をご覧いただきたい。

Jazzになろうが、どんな形式になろうが、
殿下は殿下であり、神は神である。
音楽の本質は、形式ではない。

2020年6月1日月曜日

名作を最後の一文で味わう会

名作は最後の一文で決まる。
本会は名作を最後の一文で味わう同好会である。

どんなによくできた小説でも、最後の一文が決まらなければ駄作である。いや、よくできた小説なら、最後の一文は自然と神がかってくるはずだ。そういうものだ。具体的にみていこう。

羅生門:芥川龍之介
【下人の行方ゆくえは、誰も知らない】
決まりに決まっている。典型的な突き放し系。突き放すことで書きもしていない物語を読者に提供することに成功している。小説の舞台を巨大化させる装置となっているのだ。

女生徒:太宰治
【もう、ふたたびお目にかかりません】
さすがに芥川に憧れる太宰である。この「他人の日記丸パクリ文学」に、羅生門風の突き放し系を加えることで不朽の名作を作り上げた。ちなみに、この最後の文に至る前文は【おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?】である。脱帽。

人間失格:太宰治
【神様みたいないい子でした】
おなじく太宰治。どんでん返し系である。人間を失格した人間に対して神様の評価を与えることで、小説を哲学の高みに持ち上げた。厳密にいえばどんでん返しではない。ふつふつと見え隠れする主張が、最後の一文で爆発したともいえる。中身もとんでもないが、ラストもとんでもない小説である。

ドグラマグラ:夢野久作
【……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………】
小説の出だしとほぼ同じループ系。読者はもはやこの世界から逃れるすべはない。

坊ちゃん:夏目漱石
【だから清の墓は小日向の養源寺にある】
これは何系なのだろうか。清は物語としてはサブ的な存在である。それでもこのラストによって坊ちゃんの暖かさが伝わり、読者は坊ちゃんへの親近感をもつことになる。清が主人公的な存在のようにも思えてくる。しかも、清は漱石の敬愛する人物のおばあちゃんであり実在した人物である。本当に清の墓は小日向の養源寺にあるのだ。文章が小説の世界と現実の世界を繋ぐトンネルのような役割をしている。深い。私が世界一好きな最後の一文である。ここで使われた「だから」は日本文学史上最も美しい接続詞と称えられている。私もそう思う。

こころ:夏目漱石
【妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい】
このラストが名作にふさわしいのか、ふさわしくないのか、評価がわかれるところかもしれない。最後の最後まで先生は先生であったとするのであれば、たしかにこのラストしかないような気がする。もっと簡潔に書けたような気もする。本体も含めて私自身の評価が定まっていない作品である。

伊豆の踊子:川端康成
【頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった】
なにも言うことはない。ラストの一文と言えば川端康成である。川端系としかいいようもない。掌の小説という短編群を読めば、川端系の恐ろしさは実感できる。

古都:川端康成
【町はさすがに、まだ、寝しずまっていた】
苗子が古都に溶けていく。「まだ」の後に打たれた「、」は議論のあるところであるが、私は川端がこの物語に対する心残りのような「、」と読み取った。

山の音:川端康成
【瀬戸物を洗う音で聞こえないようだった】
これが菊子と信吾の距離なのだ。菊子の透明感、というか、この家族のバラバラ感。たまらんですな。

雪国:川端康成
【そう叫ぶ駒子に近づこうとして目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった】
言語がここまでの表現ができるのかと、もはや恐怖を感じるレベルに達している。天の川が人のなかに入ってくるという表現は、いったい何を食べればでてくるのか。川端系のなかでも最高峰に位置するラスト一文。私が世界で二番目に好きな最後の一文である。

もし会員のみなさんで推しのラストがありましたら、コメント欄にどうぞ。



2020年1月18日土曜日

川端康成「雪国」




雪国の書評は、
すでにアマゾンに書かせていただいた。

内容については一切触れていない。
ただ読むべしという推薦文である。
不朽の名作だ。私としてはこれで十分と踏んだ。

しかしふとネットの書評を流してみると、
ネガティブなレビューが散見される。

もちろん良し悪しの判断はそれぞれでいい。
ただ雪国の価値が皆目伝わっていないのはあまりにも悲しい。
雪国を至高の芸術であると信じて疑わない私としては歯がゆい限りだ。

雪国の解説は幾千の猛者たちがすでに書いているので、
これ以上は、とも思ったが私は私なりの雪国がある。
それを伝えたい。

ちょうどインフルエンザにかかっている。
身動きがとれない今しかない。

さて、
小説のあらすじは一文で終わる。
「東京に妻子ある島村が、雪深い温泉町の芸者駒子と恋愛をする話」である。
読んでないひとからすれば、なんじゃそれ?だろう。
しかし、マジそれだけなのだ。

文庫本で148ページ、年月にして2年以上、
8回に渡って書き分けられ、湯沢越後への取材も敢行、
なんと駒子のモデルも実在する小説のあらすじが、
たったの一文で表現できるのである。
すでにこの時点で薄ら寒くなるではないか。

では、とんでもない事件が次々起こるのかと言えば、
あなたのご想像の通り、ほとんどなにも起こらない。
話が展開するに連れて駒子の境遇がわかってきたりするが、
それらに物語を変えるような決定的な影響力はない。

唯一の事件的な要素と思えるのは
当初駒子の同居人であった葉子である。
葉子は駒子のリファレンス的存在であり、
雑誌を越えて書き分けられた小説全編を貫く芯棒になっている。
しかしこの芯棒は雪国を物語として引っ張るには必要だが、
島村と駒子の運命に影響するまでの装置ではなさそうだ。

では、
徒労に終わりそうな二人の苦しい恋、
きっといつの時代でもどんな場所でも
起こるであろうありきたりなテーマで、
川端はいったいなにを描いたのだろうか。

あの有名な書き出しから読み解いてみる。

【国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。】

マジでエグい。この小説にこれ以上の書き出しはない。私が小説家を目指していたなら、読んだ瞬間に目指すのを諦めるレベルである。

出だしの三文は俳句、短歌のような行間の広がりをもつ。

一文目。国境を越えて大きな変化をもたらすことで、この小説への入り口としている。トンネルがその扉だ。同時に、この小説の登場人物が雪の降らない都会から、雪の降る田舎町へ旅行をしてることを匂わせている。この匂いだけで大いに想像を掻き立てられる。最小限の情報だけを送り出すことで、あとは読者の知性に委ねる。この行間の大きさが、川端文学を行間文学と呼ばせる所以だ。季語は冬だ。

二文目。前文の世界観を継承する同時に、時刻が相当遅いこと、どうやら今は雪が降っていないこと、街明かりもたいしてないこと、底抜けの静寂など、読者の想像を掻き立てる。文章を短くした分、さらに行間が広い。またここで、色がこの小説のひとつのテーマになっていることを暗示する。小説全編に渡って色は巧妙な小道具として使われる。雪国は色の小説と言ってもいいくらいだ。川端はとことん視覚に訴えかける。

そして三文目の汽車だ。急に空間と行間が狭くなり、あ、これは映画のような視覚的表現、カメラワークになっていると気がつく。最初の雪国という広角の視点、次に白い底で視点を地面に降ろし、最後に点のように小さな汽車に意識を向けさせられる。読者は自然と汽車のなかに入り込んでゆく。あまりにも巧みな構成だ。

しかも、この一連の広角と狭角の視点切り替えによって、人が大自然に包まれている存在であることを暗示させる。このスタートダッシュで、川端の描きたくてたまらない人と自然という日本古来からの大テーマが見事に含まれているではないか。駒子と島村の恋愛も大自然と紐付けされていくし絡め取られてもいくし、それが厳しくも愛らしく感じられ、最後の最後にはテーマごと天の川に引きとらせる。男女の心の微細な動きまでが、行間に落とされて広げられ、大自然と同化させられていく。なんという独創的な。それでいて異質さがない。

どうだろう。最初の三文でこの始末である。いやいや最初だけでしょこんなのは、と思われた方は甘い甘い。全編である。雪国はわずか148ページの短い小説だが、読者の知性と経験に応じて無限に膨らむ可能性のある作品なのである。なんということだ。こんなことではいつまでたっても解説は終わらない。

では、もうひとつだけ。物語中にときおり現代への向けての示唆的な表現がでてくる。これが面白い。例えば、駒子と島村の会話。
【「分からないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」「なにもかも散っちゃってるよ。」「今に命まで散らすわよ。・・・・。」】
なにかを言い当てられているような気がしてドキッとさせられる。駒子は美しく純粋であるが故に恐ろしいセリフを吐く。

雪国の価値がすこしでも伝わっただろうか。

語りだすときりがないので、あとは自分なりに噛み締めて欲しい。もし、一度読みかけて詰まらないと諦めたひとなら、136ページ【突然擦半鐘が鳴り出した。】からリスタートしたいところだ。小説は、あと12ページを残すのみである。ここからの疾走感、そして最後の最後に時間の流れは見事に制御され、幕を閉じるのを惜しむようなスローモーションが演出され、島村と駒子の物語は大宇宙に融合させられていく。この浮遊感はもはやこの世のものではない。

雪国は星の数ほどある宗教書や哲学書よりも、大切なことをあなたに伝える力を持っていると信じる。もしインフルエンザで寝込んでいるようでしたら、是非お読みいただきたい。

川端康成:Wikipediaからの転載

病床にて。
EW