2017年12月18日月曜日

夢野久作「ドグラ・マグラ」

出会い頭の事故のようなものである。長年読むのを躊躇っていた「ドグラ・マグラ」をついに読んでしまった。やってしまったものは仕方がない。淡々と読後処理をしたいと思う。まさか自分がこのような感想文を書いてしまうとは、何とも作者の罠にまんまとハマってしまったようで悔しくもある。

以降ネタバレを大いに含むので、これから読む予定の方は要注意。


本作を読む予定がない方にも、一言お伝えしておくことがある。ドグラ・マグラという小説は非常に難解なため、感想文も難解に成らざるをえず、言いたいことを的確にお伝えできるかどうか正直自信がない。感想文の内容が複雑で読了までの道のりが険しいことをお断りしておく。さらに。僕の自分勝手な感想を読んだ後、もし万が一本作に興味が湧いてしまって結局自分で読むことになったとしよう。するとおそらくは、あなたは僕とは異なる感想をもつはずである。その時に「こらーっ。ぜんぜん違うじゃないかーっ!」といった文句は、ナシにしてもらいたい。本作はそれくらい予防線を貼らないといけない危険な代物なのだ。

「手っ取り早く内容を把握したい」という方には漫画をお勧めする。読破するのに1〜2週間はかかるであろう本作も、漫画ならおそらく30分もかからずに読了できるだろう。

漫画の絵柄が苦手であったり、漫画自体が苦手な方は、安部美幸氏のドグラ・マグラ論がうまく粗筋を伝えている。

 漫画にしても論文にしても非常に分かりやすい。しかしこれは漫画や論文の書き手なりの解釈に行き着いたお陰で分かりやすくなったのだ。ドグラ・マグラは、読み手によって解釈が異なるよう巧妙に細工がされている。さらには読むたびに印象が変わるようにも仕掛けがされている。本作を読まぬまま概要に手を出したとしたら、恐らくあなたは「赤の他人の思考に自らを委ねていいのかねっ?」と、ドグラ・マグラから問われることになるだろう。

 さて。御託はここまでにして、ドグラ・マグラを僕なりに紐解いていく。

 最も重要なヒントは、作中に出てくる小説「ドグラ・マグラ」である。さあ、もう訳がわからなくなってきたぞーっ。ドグラ・マグラの中には、本作と同じタイトルの小説「ドグラ・マグラ」が出てくる。所謂メタ・フィクションという手法であるが、極めて示唆的な仕掛けである。作中作の「ドグラ・マグラ」なる小説の全文は、当然のことながら明らかにされることはないのだが(明らかにしたら無限に発散する)、出だしと終わりが僕たちの手にしているドグラ・マグラと同じである。つまり、本編と作中作との同一性が示唆されているのである。

 では、作者夢野久作と、作中作の作者は同一人物なのだろうか。作中の「ドグラ・マグラ」の作者は、探偵小説好きの若い大学生で、探偵小説の中でも心理学と精神分析と精神科学方面のものを好んでいるという設定が明かされる。この姿は、まさに若き夢野久作ではないか。

 さらに、作中作「ドグラ・マグラ」の作者の設定には続きがある。
 
 作者は精神に異常をきたしており、ある幻覚錯覚に囚われた結果、奇々怪々な惨劇を引き起こし、精神病室に収容されたとあるのである。実は、この設定とほぼ同じ設定がされてた登場人物が、ドグラ・マグラの中にはあと三人出てくる。まず1人目は、本作の中で最も重要な人物であり、本作の主人公の名として上がる「アンポンタン・ポカン」君、次にその主人公が入院している大学病院の教授から教えられる青年「呉一郎」君。そして本作ドグラ・マグラの語り手である一人称の「私」である。この3者は、いずれも20歳くらいの青年であること、自分の生まれ故郷や両親の名前、さらには自分の名前すらも忘れていること、そして非常に危険な遺伝的精神病の発作を持つが故に、九州帝国大学医学部精神病棟の七号室に収容されていること、といった共通項を持つ。そしてもっと言えば、この3人と作中作「ドグラ・マグラ」の作者は、どうやら同一人物である可能性が暗に示唆されているのである。「ドグラ・マグラ」の作者とは誰か。夢野久作に他ならない。

 つまり、これらの登場人物は、まさに作者の夢野久作、あるいは夢野自身の部分投影に他ならない。ドグラ・マグラとは、ミステリー小説という体を装った、夢野久作の心理的私小説という側面を持っている。

 ドグラ・マグラをメタ・フィクション仕掛けの心理的私小説と捉えることで、作品の骨太な構図が浮かび上がってくる。同一人物とおぼしき作中4名に夢野久作本人を加えた計5名の主張する世界は、夢野久作自身が心の中でふつふつと握りしめてきたであろう、彼独自の世界観とオーバーラップしているはずである。文学青年であった夢野久作は、恐らくかねてより「人間とは何か、生命とは何か」さらには「私とは何か」といった、哲学的な難題に日々悩まされていたのかもしれない。夢野久作の同時代には、かの有名な推理小説作家である江戸川乱歩や、ドグラ・マグラ同様日本三大奇書のひとつに数えられる「黒死館殺人事件」の作者である小栗虫太郎らなど、人間の根幹に触れようとする文学者が多かった。西洋哲学の影響をもろに受けていた彼らは、どこかそのようなことを考えること自体、ファッションである。そして、日常生活の中で何の役にも立たない、このような哲学的疑問に苛まれている自分と、自分を取り巻く“普通”の人々との落差から、自分の狂気性をまざまざと見せつけられ愕然としながらも、半ば恍惚としていたのではないだろうか。

 結果生み出されたのが、作中作「ドグラ・マグラ」と同様、作中の登場人物の手による作中作であり、本作のトリックを支える要である「胎児の夢」と「脳髄論」の2編の学術論文である。この2編の主張は、我々の現代科学の常識を真っ向から疑ってくる。

 「脳髄(いわゆる脳のこと)は、物を考えているところではない。考えているのは全身の細胞一個一個であり、脳髄はそれらの信号を束ね、外部との相互作用を実現しているに過ぎない。」


 「胎児は一個一個の細胞が記憶している進化の歴史、そして祖先の所業の夢を見ているのだ。」


 この考えに行き着いたことによって、夢野久作は孤独な狂気から解放されたのだろう。特に胎児の夢の思想は、夢野を大いに救ったことであろう。論文「胎児の夢」の結論は、言うなれば「自分が他者と相容れないのは自分のせいではなく、自分の祖先からの因果によるものである」といった、ある種の責任転嫁と同義だからである。つまり極端に言えば、自分の狂気は生命誕生からの因果である、と結論づけたのである。この論理の行き着く先は、多かれ少なかれ全ての人間は狂人ということになる。その証拠に同じ学術論文の並びで「世界の人間は一人残らず精神病者」「地球表面上は狂人の一大解放治療」という主張が堂々となされている。

しかも、である。これらの論文や談話は、作中の語り手である「私」を通して行われていない。世紀の大天才であり、稀代の大狂人であり、ドグラ・マグラ事件全ての首謀者である、九州帝国大学精神科教室主任教授の正木敬之の主張である。科学に身を売ったとも言える正木教授は、人非人的な手法で自身の仮説を証明しようとし、数々の人体実験を試みる。彼は「脳とは精神や心を支えている全てである」という近代西洋科学における唯物論的思考に対し、命を賭して一撃を加えようとしているのである。それはそうであろう。もし仮に脳が精神や心を支えている全てであるのならば、「私」の狂気はその場でなんとか成るはずじゃないか、おかしいではないか。

そして、この正木教授こそが「私」の父親なのだ。

 奇妙な考えを引き起こす原因は自分の父親の血である。もっと正確に書けば、父親というのはあくまでも象徴である。その血は連綿として古代から受け継がれてきたとしたのであり、まさに「脳髄論」の真髄そのものである。この作品、探偵小説あるいはミステリー小説という形式をとってはいるが、作者の哲学的な思いの丈を伝えるための手段としか思えない。自分の処女作が賞を獲ったという知らせを受けた直後から、ドグラ・マグラの原稿は書かれ始めている。夢野自身が作家になろうと決意した、はるか以前から作品の構想があったとしか思えないのである。「この作品を書くために生まれてきた」という作者の談話が残されているが、この言葉は一片の曇りのない、嘘偽りのない真実であろう。10年以上の歳月をかけて推敲された本作は、どこをどう読んでも命を削った感がある。以前感想文を書いたマークトウェインの「人間とは何か」と、どこか同じ空気が漂っている。

 「脳髄論」は恐らく、夢野と同時代を生きた動物学者 丘浅次郎が記した「脳髄の進化」にヒントを得たものであろうが、生物の進化論を心理遺伝学というコンセプトにまで昇華させた夢野は、間違いなく奇才である。本作が書かれた時期からすると、遺伝子の実体であるDNA二重螺旋の意味が発見されるのは遥か遠い未来である。身体中すべて一個一個の細胞に、古代からの記憶が等しく封印されているという事実は、当時の人々にはまだ知る由もないことであった。そんな時代に、限られた知識と思考だけで「脳髄論」に至った夢野久作とは、とんでもない奴だと言わざるを得ない。

 一見、自分の問題を他者へなすりつけたようにも見える「脳髄論」であるが、別の見方をすれば、夢野久作なりの優しさと解釈することも可能である。悩んでいる君、君も僕と同じだよ、そして生きとし生けるものすべてが根底では繋がっているよ。これを夢野久作特有のはにかんだ優しさと評してみてはいかがだろうか。

 奇しくもドグラ・マグラが刊行された1935年、夢野久作に多大な影響を与えた父親であり、当時の日本の黒幕とも言われた政治活動家杉山茂丸が急死。そして翌年の1936年3月11日、父親の遺産整理をしている最中に渋谷区南平台町の自宅で客人を迎えた夢野久作は、「今日は良い日で…」と言いかけて笑った時に脳溢血を起こして昏倒、そのままこの世を去った。まさに天命、予め決められていたとしか言いようがない最期である。

2017年1月30日月曜日

マーク・トゥエイン「人間とは何か」

 「トム・ソーヤの冒険」で有名な、マーク・トゥエイン最晩年の作品。

 ひとりの文豪が生涯を通して考え抜いて到達した境地が描かれている。極めて哲学的な内容であるにも関わらず、さすがは少年冒険物語を得意とした文豪。読みやすい。全編老人と若者の対話という形式で提供され、老人が例え話を交えながら「人間とはなにか」をグイグイ説いていく。哲学書にありがちな小難しい用語を使うことはなく、重厚な主張を展開する。

 ただし。本書の場合、そのわかり易さが逆作用したこともあるようだ。マーク・トゥエインは本の完成後、誰よりも先に最愛の妻に読ませた。敬虔なカトリック教徒であった妻は悲観的な世界観を呈する内容にショックを受け、作品を拒絶したと伝えられている。妻は書かれていた主張を完全に理解できたのであろう。続いて娘に読ませるが、やはり反応は母親と同じであった。ごく普通の生活を営む人間であった彼女らにはとても受け入れられるような代物ではなかったのである。

 彼女たちにとって衝撃的だったかもしれないが、最愛の家族からの拒絶は年老いた文豪にとってもショックであったに違いない。人生を賭けて到達した思想が、一番の理解者であったはずの家族に受け入れてもらえなかったのは堪らないことだろう。さすがのマーク・トゥエインも、家族の反対を押してまで本を出版をすることはできず、結局妻がこの世を去ってから出版されることになる。かと言って家族に受け入れられないものが世間から受け入れられるはずもなく、文豪の名は隠し、匿名で、しかも自費出版という非常に不本意な形での出版となった。彼はそれでも重圧に負けることなく出版に踏み切った。自身の思想をどうしても闇に葬ることはできなかったでのある。これはよほどの事態ではないか。その衝撃の内容やいかに。

 老人は、本書の中で徹頭徹尾「人間は機械に過ぎない」と説く。人間は周囲からの入力を得て、運命的には決定している出力を出す機械だと断じている。人間が行動を決める際の唯一の原理は自己満足であり、そこには神の教えもなければ、善も悪もない。はたまた自由意志もない。かなり過激な思想を、この老人は口調穏やかに、しかし若者をグウの音も出ない程の力強さで説き伏せていくのである。若者は何度もそんなことはないと抵抗を試みるのだが、老獪な老人を前にしては為す術もない。敬虔に神を信じていた妻や娘がショックを受けるのも無理はない。特に病弱で死を目前に控えていた妻は、自分の人生をつくづく悲観したかもしれない。

 しかし、キリスト教圏の外で生まれ育った現代人の僕は考えるのである。この思想は今の自分達にとって、そこまで過激なのだろうか、と。

 巷で話題の人工知能を考えてみよう。現段階の人工知能はまだまだ幼稚なものであるが、囲碁名人をニューロンの思考で打ち破った実力と方法論を考えれば近い将来人間並みの思考を備えた人工知能が出現したとしてもおかしくない状況である。所謂シンギュラリティ。もし近い将来人間並みの知性を備えた汎用性の高い人工知能が出現したとしたら、老人の主張は俄然現実味を帯びてくる。人間が作り出した人工知能には神もなければ善も悪もない。そこには恣意的な自己満足だけがあることになる。人は再び、人間とはなにかという問いに直面せざるを得ないではないか。

 機械論ではないが、比較的近い思想がアジアにある。他ならぬ仏教がそれである。仏教ではあなたという自己は無く、自己はあなた以外の全てであると説く。全は個であり、個は全である。つまり自己は世界と等価であるという空の世界こそ、この世の真理であるという。

 自己の自由意思の存在を無いものとした上で、神もなく善も悪もない、個は全である、という仏教の世界観は、よくよく読み解くとマーク・トゥエインの主張にほぼ等価であることがわかる。しかも全文に渡り、マーク・トゥエインの筆からは悲観的な雰囲気は一切なく、むしろある悟りの境地に到達した一種の満足感のような、恍惚にも近いような印象を受ける。どうやらこの思想は彼にとってそれほど不快な世界ではないようだ。自分が世界に完全に溶け込むこと、それは悟りの境地だ。自己が消失しても世界が自身であり自身が世界となるならば、永遠に安寧でいられるだろう。キリストの教えに育った人間にとっては、これはまさに約束の地シオンへの到達であり、ある意味どの宗教を信仰する人間にとっても、全ての人にとって悟りの境地とも言える。しかし幼少期からキリストの教えに忠実に育ち、なんの疑問も持たずにきたある意味「普通の人」である彼の周囲の多くの人々にとっては、マーク・トゥエインの悟りの真意には気付かず、かえって逆の意味に捉えてしまったことだろう。

 マーク・トゥエインは、この後、「人間とはなにか」の続編とも言える「不思議な少年」を執筆している。巨匠、この小説には相当苦労をしたようで、結局のところ未完で終わってしまった。途中二度にわたる大掛かりな修正を行ったため、結末の違う未完原稿が三種類もある。このことからも周囲の賛同を得られることのなかった文豪が、いかに「人に伝えることの難しさ」に悩み、苦悩したかがにじみ出ている。

 不思議な少年では、全知全能の神「サタン」が少年の姿で現れる。サタンの語る人間は相変わらず機械論的であり、運命決定論的である。そして神だけが人間の運命を好き勝手に変えることができる自由意志を持っていると説く。何より面白いのは、その神が純粋無垢な少年の姿をしていることだ。この少年は本編の中で、その純粋無垢な姿の通り、善と悪という概念を持たず平気で人間の運命をもて遊ぶ。

 神は不可知の象徴である。小説中では登場人物の三人の少年だけがこの神の存在を知ることになるが、マーク・トゥエインが言うところの神の本質とはあくまで不可知な存在である。つまり、この世が機械論の世界であったとしても、不可知な存在は想定可能であるとマーク・トゥエインは暗に示しているのである。これこそマーク・トゥエインなりの、キリスト教を忠実に信じる人々への回答なのかもしれない。「人間とはなにか」が一元論というすっきりとした単純な世界であるなら、「不思議な少年」は二元論再構築への新たな挑戦と読み取ることができる。「不思議な少年」を未完のままとした文豪の迷いは、人工知能に直面している僕達の苦悩とすくなからずオーバーラップする。

 100年前に書かれた二つの小説は、どの哲学書よりも近代的で新しい。今こそ必読の書だと思う。
追記:マーク・トゥエインは、英国心霊現象研究協会の有力な支持者でもある。面白い。

2017年1月27日金曜日

言葉遊び「雪」


消え渋る 残雪とける 春の勇気 


白銀の 雪根開く 木々の息吹


いたずらに 枝をゆさゆさ 雪かぶり


残雪に 紅く色さす 千両の春


千両に そっとよりそふ 雪化粧


降りしきる 頬の白雪 拭う君の手


さくら待つ 校舎のかげに なごり雪


凍り水 降り散る雪に 待つ桜


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