2017年1月30日月曜日

マーク・トゥエイン「人間とは何か」

 「トム・ソーヤの冒険」で有名な、マーク・トゥエイン最晩年の作品。

 ひとりの文豪が生涯を通して考え抜いて到達した境地が描かれている。極めて哲学的な内容であるにも関わらず、さすがは少年冒険物語を得意とした文豪。読みやすい。全編老人と若者の対話という形式で提供され、老人が例え話を交えながら「人間とはなにか」をグイグイ説いていく。哲学書にありがちな小難しい用語を使うことはなく、重厚な主張を展開する。

 ただし。本書の場合、そのわかり易さが逆作用したこともあるようだ。マーク・トゥエインは本の完成後、誰よりも先に最愛の妻に読ませた。敬虔なカトリック教徒であった妻は悲観的な世界観を呈する内容にショックを受け、作品を拒絶したと伝えられている。妻は書かれていた主張を完全に理解できたのであろう。続いて娘に読ませるが、やはり反応は母親と同じであった。ごく普通の生活を営む人間であった彼女らにはとても受け入れられるような代物ではなかったのである。

 彼女たちにとって衝撃的だったかもしれないが、最愛の家族からの拒絶は年老いた文豪にとってもショックであったに違いない。人生を賭けて到達した思想が、一番の理解者であったはずの家族に受け入れてもらえなかったのは堪らないことだろう。さすがのマーク・トゥエインも、家族の反対を押してまで本を出版をすることはできず、結局妻がこの世を去ってから出版されることになる。かと言って家族に受け入れられないものが世間から受け入れられるはずもなく、文豪の名は隠し、匿名で、しかも自費出版という非常に不本意な形での出版となった。彼はそれでも重圧に負けることなく出版に踏み切った。自身の思想をどうしても闇に葬ることはできなかったでのある。これはよほどの事態ではないか。その衝撃の内容やいかに。

 老人は、本書の中で徹頭徹尾「人間は機械に過ぎない」と説く。人間は周囲からの入力を得て、運命的には決定している出力を出す機械だと断じている。人間が行動を決める際の唯一の原理は自己満足であり、そこには神の教えもなければ、善も悪もない。はたまた自由意志もない。かなり過激な思想を、この老人は口調穏やかに、しかし若者をグウの音も出ない程の力強さで説き伏せていくのである。若者は何度もそんなことはないと抵抗を試みるのだが、老獪な老人を前にしては為す術もない。敬虔に神を信じていた妻や娘がショックを受けるのも無理はない。特に病弱で死を目前に控えていた妻は、自分の人生をつくづく悲観したかもしれない。

 しかし、キリスト教圏の外で生まれ育った現代人の僕は考えるのである。この思想は今の自分達にとって、そこまで過激なのだろうか、と。

 巷で話題の人工知能を考えてみよう。現段階の人工知能はまだまだ幼稚なものであるが、囲碁名人をニューロンの思考で打ち破った実力と方法論を考えれば近い将来人間並みの思考を備えた人工知能が出現したとしてもおかしくない状況である。所謂シンギュラリティ。もし近い将来人間並みの知性を備えた汎用性の高い人工知能が出現したとしたら、老人の主張は俄然現実味を帯びてくる。人間が作り出した人工知能には神もなければ善も悪もない。そこには恣意的な自己満足だけがあることになる。人は再び、人間とはなにかという問いに直面せざるを得ないではないか。

 機械論ではないが、比較的近い思想がアジアにある。他ならぬ仏教がそれである。仏教ではあなたという自己は無く、自己はあなた以外の全てであると説く。全は個であり、個は全である。つまり自己は世界と等価であるという空の世界こそ、この世の真理であるという。

 自己の自由意思の存在を無いものとした上で、神もなく善も悪もない、個は全である、という仏教の世界観は、よくよく読み解くとマーク・トゥエインの主張にほぼ等価であることがわかる。しかも全文に渡り、マーク・トゥエインの筆からは悲観的な雰囲気は一切なく、むしろある悟りの境地に到達した一種の満足感のような、恍惚にも近いような印象を受ける。どうやらこの思想は彼にとってそれほど不快な世界ではないようだ。自分が世界に完全に溶け込むこと、それは悟りの境地だ。自己が消失しても世界が自身であり自身が世界となるならば、永遠に安寧でいられるだろう。キリストの教えに育った人間にとっては、これはまさに約束の地シオンへの到達であり、ある意味どの宗教を信仰する人間にとっても、全ての人にとって悟りの境地とも言える。しかし幼少期からキリストの教えに忠実に育ち、なんの疑問も持たずにきたある意味「普通の人」である彼の周囲の多くの人々にとっては、マーク・トゥエインの悟りの真意には気付かず、かえって逆の意味に捉えてしまったことだろう。

 マーク・トゥエインは、この後、「人間とはなにか」の続編とも言える「不思議な少年」を執筆している。巨匠、この小説には相当苦労をしたようで、結局のところ未完で終わってしまった。途中二度にわたる大掛かりな修正を行ったため、結末の違う未完原稿が三種類もある。このことからも周囲の賛同を得られることのなかった文豪が、いかに「人に伝えることの難しさ」に悩み、苦悩したかがにじみ出ている。

 不思議な少年では、全知全能の神「サタン」が少年の姿で現れる。サタンの語る人間は相変わらず機械論的であり、運命決定論的である。そして神だけが人間の運命を好き勝手に変えることができる自由意志を持っていると説く。何より面白いのは、その神が純粋無垢な少年の姿をしていることだ。この少年は本編の中で、その純粋無垢な姿の通り、善と悪という概念を持たず平気で人間の運命をもて遊ぶ。

 神は不可知の象徴である。小説中では登場人物の三人の少年だけがこの神の存在を知ることになるが、マーク・トゥエインが言うところの神の本質とはあくまで不可知な存在である。つまり、この世が機械論の世界であったとしても、不可知な存在は想定可能であるとマーク・トゥエインは暗に示しているのである。これこそマーク・トゥエインなりの、キリスト教を忠実に信じる人々への回答なのかもしれない。「人間とはなにか」が一元論というすっきりとした単純な世界であるなら、「不思議な少年」は二元論再構築への新たな挑戦と読み取ることができる。「不思議な少年」を未完のままとした文豪の迷いは、人工知能に直面している僕達の苦悩とすくなからずオーバーラップする。

 100年前に書かれた二つの小説は、どの哲学書よりも近代的で新しい。今こそ必読の書だと思う。
追記:マーク・トゥエインは、英国心霊現象研究協会の有力な支持者でもある。面白い。

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