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2020年6月1日月曜日

名作を最後の一文で味わう会

名作は最後の一文で決まる。
本会は名作を最後の一文で味わう同好会である。

どんなによくできた小説でも、最後の一文が決まらなければ駄作である。いや、よくできた小説なら、最後の一文は自然と神がかってくるはずだ。そういうものだ。具体的にみていこう。

羅生門:芥川龍之介
【下人の行方ゆくえは、誰も知らない】
決まりに決まっている。典型的な突き放し系。突き放すことで書きもしていない物語を読者に提供することに成功している。小説の舞台を巨大化させる装置となっているのだ。

女生徒:太宰治
【もう、ふたたびお目にかかりません】
さすがに芥川に憧れる太宰である。この「他人の日記丸パクリ文学」に、羅生門風の突き放し系を加えることで不朽の名作を作り上げた。ちなみに、この最後の文に至る前文は【おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?】である。脱帽。

人間失格:太宰治
【神様みたいないい子でした】
おなじく太宰治。どんでん返し系である。人間を失格した人間に対して神様の評価を与えることで、小説を哲学の高みに持ち上げた。厳密にいえばどんでん返しではない。ふつふつと見え隠れする主張が、最後の一文で爆発したともいえる。中身もとんでもないが、ラストもとんでもない小説である。

ドグラマグラ:夢野久作
【……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………】
小説の出だしとほぼ同じループ系。読者はもはやこの世界から逃れるすべはない。

坊ちゃん:夏目漱石
【だから清の墓は小日向の養源寺にある】
これは何系なのだろうか。清は物語としてはサブ的な存在である。それでもこのラストによって坊ちゃんの暖かさが伝わり、読者は坊ちゃんへの親近感をもつことになる。清が主人公的な存在のようにも思えてくる。しかも、清は漱石の敬愛する人物のおばあちゃんであり実在した人物である。本当に清の墓は小日向の養源寺にあるのだ。文章が小説の世界と現実の世界を繋ぐトンネルのような役割をしている。深い。私が世界一好きな最後の一文である。ここで使われた「だから」は日本文学史上最も美しい接続詞と称えられている。私もそう思う。

こころ:夏目漱石
【妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい】
このラストが名作にふさわしいのか、ふさわしくないのか、評価がわかれるところかもしれない。最後の最後まで先生は先生であったとするのであれば、たしかにこのラストしかないような気がする。もっと簡潔に書けたような気もする。本体も含めて私自身の評価が定まっていない作品である。

伊豆の踊子:川端康成
【頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった】
なにも言うことはない。ラストの一文と言えば川端康成である。川端系としかいいようもない。掌の小説という短編群を読めば、川端系の恐ろしさは実感できる。

古都:川端康成
【町はさすがに、まだ、寝しずまっていた】
苗子が古都に溶けていく。「まだ」の後に打たれた「、」は議論のあるところであるが、私は川端がこの物語に対する心残りのような「、」と読み取った。

山の音:川端康成
【瀬戸物を洗う音で聞こえないようだった】
これが菊子と信吾の距離なのだ。菊子の透明感、というか、この家族のバラバラ感。たまらんですな。

雪国:川端康成
【そう叫ぶ駒子に近づこうとして目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった】
言語がここまでの表現ができるのかと、もはや恐怖を感じるレベルに達している。天の川が人のなかに入ってくるという表現は、いったい何を食べればでてくるのか。川端系のなかでも最高峰に位置するラスト一文。私が世界で二番目に好きな最後の一文である。

もし会員のみなさんで推しのラストがありましたら、コメント欄にどうぞ。



2020年1月18日土曜日

川端康成「雪国」




雪国の書評は、
すでにアマゾンに書かせていただいた。

内容については一切触れていない。
ただ読むべしという推薦文である。
不朽の名作だ。私としてはこれで十分と踏んだ。

しかしふとネットの書評を流してみると、
ネガティブなレビューが散見される。

もちろん良し悪しの判断はそれぞれでいい。
ただ雪国の価値が皆目伝わっていないのはあまりにも悲しい。
雪国を至高の芸術であると信じて疑わない私としては歯がゆい限りだ。

雪国の解説は幾千の猛者たちがすでに書いているので、
これ以上は、とも思ったが私は私なりの雪国がある。
それを伝えたい。

ちょうどインフルエンザにかかっている。
身動きがとれない今しかない。

さて、
小説のあらすじは一文で終わる。
「東京に妻子ある島村が、雪深い温泉町の芸者駒子と恋愛をする話」である。
読んでないひとからすれば、なんじゃそれ?だろう。
しかし、マジそれだけなのだ。

文庫本で148ページ、年月にして2年以上、
8回に渡って書き分けられ、湯沢越後への取材も敢行、
なんと駒子のモデルも実在する小説のあらすじが、
たったの一文で表現できるのである。
すでにこの時点で薄ら寒くなるではないか。

では、とんでもない事件が次々起こるのかと言えば、
あなたのご想像の通り、ほとんどなにも起こらない。
話が展開するに連れて駒子の境遇がわかってきたりするが、
それらに物語を変えるような決定的な影響力はない。

唯一の事件的な要素と思えるのは
当初駒子の同居人であった葉子である。
葉子は駒子のリファレンス的存在であり、
雑誌を越えて書き分けられた小説全編を貫く芯棒になっている。
しかしこの芯棒は雪国を物語として引っ張るには必要だが、
島村と駒子の運命に影響するまでの装置ではなさそうだ。

では、
徒労に終わりそうな二人の苦しい恋、
きっといつの時代でもどんな場所でも
起こるであろうありきたりなテーマで、
川端はいったいなにを描いたのだろうか。

あの有名な書き出しから読み解いてみる。

【国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。】

マジでエグい。この小説にこれ以上の書き出しはない。私が小説家を目指していたなら、読んだ瞬間に目指すのを諦めるレベルである。

出だしの三文は俳句、短歌のような行間の広がりをもつ。

一文目。国境を越えて大きな変化をもたらすことで、この小説への入り口としている。トンネルがその扉だ。同時に、この小説の登場人物が雪の降らない都会から、雪の降る田舎町へ旅行をしてることを匂わせている。この匂いだけで大いに想像を掻き立てられる。最小限の情報だけを送り出すことで、あとは読者の知性に委ねる。この行間の大きさが、川端文学を行間文学と呼ばせる所以だ。季語は冬だ。

二文目。前文の世界観を継承する同時に、時刻が相当遅いこと、どうやら今は雪が降っていないこと、街明かりもたいしてないこと、底抜けの静寂など、読者の想像を掻き立てる。文章を短くした分、さらに行間が広い。またここで、色がこの小説のひとつのテーマになっていることを暗示する。小説全編に渡って色は巧妙な小道具として使われる。雪国は色の小説と言ってもいいくらいだ。川端はとことん視覚に訴えかける。

そして三文目の汽車だ。急に空間と行間が狭くなり、あ、これは映画のような視覚的表現、カメラワークになっていると気がつく。最初の雪国という広角の視点、次に白い底で視点を地面に降ろし、最後に点のように小さな汽車に意識を向けさせられる。読者は自然と汽車のなかに入り込んでゆく。あまりにも巧みな構成だ。

しかも、この一連の広角と狭角の視点切り替えによって、人が大自然に包まれている存在であることを暗示させる。このスタートダッシュで、川端の描きたくてたまらない人と自然という日本古来からの大テーマが見事に含まれているではないか。駒子と島村の恋愛も大自然と紐付けされていくし絡め取られてもいくし、それが厳しくも愛らしく感じられ、最後の最後にはテーマごと天の川に引きとらせる。男女の心の微細な動きまでが、行間に落とされて広げられ、大自然と同化させられていく。なんという独創的な。それでいて異質さがない。

どうだろう。最初の三文でこの始末である。いやいや最初だけでしょこんなのは、と思われた方は甘い甘い。全編である。雪国はわずか148ページの短い小説だが、読者の知性と経験に応じて無限に膨らむ可能性のある作品なのである。なんということだ。こんなことではいつまでたっても解説は終わらない。

では、もうひとつだけ。物語中にときおり現代への向けての示唆的な表現がでてくる。これが面白い。例えば、駒子と島村の会話。
【「分からないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」「なにもかも散っちゃってるよ。」「今に命まで散らすわよ。・・・・。」】
なにかを言い当てられているような気がしてドキッとさせられる。駒子は美しく純粋であるが故に恐ろしいセリフを吐く。

雪国の価値がすこしでも伝わっただろうか。

語りだすときりがないので、あとは自分なりに噛み締めて欲しい。もし、一度読みかけて詰まらないと諦めたひとなら、136ページ【突然擦半鐘が鳴り出した。】からリスタートしたいところだ。小説は、あと12ページを残すのみである。ここからの疾走感、そして最後の最後に時間の流れは見事に制御され、幕を閉じるのを惜しむようなスローモーションが演出され、島村と駒子の物語は大宇宙に融合させられていく。この浮遊感はもはやこの世のものではない。

雪国は星の数ほどある宗教書や哲学書よりも、大切なことをあなたに伝える力を持っていると信じる。もしインフルエンザで寝込んでいるようでしたら、是非お読みいただきたい。

川端康成:Wikipediaからの転載

病床にて。
EW

2019年6月21日金曜日

太宰治「人間失格」

長年、ずぅーーーと書けなかった人間失格の書評。
どう書いたところで自分をさらけすぎて嫌になる。
思案して思案してようやく書けた。
以下、アマゾンの書評に投稿したまま。

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【人間とはかくも哀れな・・・】

喫茶店のママのセリフ、
「葉ちゃんは・・・神様みたいないい子でした」
これに尽きる。このセリフによって読者は人間社会の泥沼を思い知らされる。

この小説の主人公である大庭葉蔵には、
どうやら人間特有の欲望というものが欠けているようだ。
そんな自己中心的な心を持たない葉蔵が、
女性から神の子のように見えても不思議ではない。

では葉蔵が神の子なら、葉蔵以外の人間はいったいなんだろうか?
人間を失格した葉蔵が神の子なら、人間を合格した人間は?
その答えは誠に恐ろしい。

太宰治はとんでもない才能をもった作家ではあるが、
その筆は必ずしも安定したものではない。
しかしこの人間失格に限っては、究極の筆致である。
「末期の眼」をもった彼に何かが憑依したような別次元の作品となった。
その瞬間太宰は、川端康成が憧れ続けた「魔界」に踏み入れたに違いない。

万人にお勧めできる作品ではない。
読んで元気が出るという代物ではない。
しかし、人間、自分、社会の真の姿を知りたいと
切に願うのであれば読むべき一冊である。

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https://www.amazon.co.jp/review/R2BPSK12H0PGF7/ref=cm_cr_srp_d_rdp_perm?ie=UTF8

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ちなみに、日本で最も読まれている小説は、夏目漱石の「こころ」が1番で、太宰治の「人間失格」が2番だそうである。アマゾンの評価数も両小説は飛びぬけていて、「こころ」が688個で星4.4の評価、「人間失格」が604個の星4.4の評価でそれを裏付けている。どちらも暗い小説であるが日本人気質に合うようだ。次は「こころ」の評価を書くかな。
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2018年10月29日月曜日

川端康成考

ここのところ川端康成を読みふけったので、感想文をいくつか。アマゾンレビューからの転載です。

『山の音』
レビュータイトル:中年壮年老年にお勧めの傑作文学

信吾に何度叫びかけたことか。
「おい信吾っ!」「しっかりしろ!」「そうじゃないだろ!」「そっちかーい!」と。

ある場面などでは、
「行くんかーーーい!」と
飛び上がってしまったことを告白する。

要するに作者の意図にがっつりと嵌められた次第である。

この小説、主人公の信吾に尽きる。
彼の老年期の固まった信念があらゆる登場人物との微妙なズレを生み出す。
しかし、そのズレが登場人物のキャラを絶妙に際立たせる。
文体はたんたんとしている。まるで俳句。行間が極めて大きい。
相変わらずの川端節である。

ただこの小説を心の底から面白いと言えるには、
そこそこの人生経験が必要かもしれない。
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『舞姫』
レビュータイトル:ノリノリの三島由紀夫

相変わらずの川端節だ。湖水の表層だけをすくっているだけなのに、水底に横たわる核心が見え隠れする。しかも核心があるのかないのか安定させないまま読者を引きずり回す。そして最後に舞姫波子の恋人である竹原が放つ「名義はね、」というセリフで、湖全体を凝結させるのである。巧みな小説技工である。解説の三島由紀夫のいうところの「隔靴掻痒のリアリズム」だ。

川端と三島は特別な間柄にあった。「舞姫」の解説は、その三島が担当している。この解説が特筆ものである。どちからというとロジカルな文章がおおい三島がずいぶんエキサイトしている。舞姫波子の夫である竹原に対して『卑怯な平和主義者、臆病な非戦論者、逃避的な古典愛好者、云々、まさにゾッとするような男である。』と、最大限の罵倒である。よほど気に入らなかったのであろう。さらに川端の美観について『川端氏にとっての永遠の美とは何か。私が次のようにいうと、我田引水と笑われるに決まっているが、おそらくそれは美少年的なものであろう』というハシャギぶりである。なんとも可愛らしく、ストレートでカッコいい男子である。本体とともに、解説も必読の書として推薦する。
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『掌の小説』
レビュータイトル:ノーベル賞受賞作家の心が結晶化
2018年9月11日

地底深くで黒鉛がダイアモンドに結晶化していくように
誰もが心に煌めく美の結晶を沈ませているに違いない。

しかしその隠れた美の結晶を「はいどうぞ、はいどうぞ」と
とり出すことのできるのは選ばれし芸術家だけであろう。

本作品集には、そんな結晶の数々が惜しげもなく並んでいる。
超短い小説。結晶の凝縮度は半端なく、最後の一文の衝撃も激しい。

百人おれば百人の好みが分かれるだろうが、
なかでも僕は「海」が大好きである。

混沌とした時代だからこそ読んでほしい作品である。
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『美しい日本の私』
レビュータイトル:超ハイレベルなスピーチ原稿
2018年8月27日

驚きだらけである。

まず、聴衆の知的レベルに敬意を評しているのか、いささかの手加減もない。妖艶、幽玄、余情、虚空、仏界、魔界などなど、日本人ですら理解できるかどうか分からない単語に遠慮がない。研究者としてプレスリリース原稿を書いている身としては考えさせられる。

さらに、自身の作品へのノーベル賞受賞記念講演の原稿であることを考えると、作品への言及が極めて限られているのも見事である。日本古代からの歴史の枠組みを紹介し、日本文学への理解を促すことで、川端文学への道筋としている。構成が壮大なのだ。

予稿からあえて修正の入った「美しい日本の私」というタイトルも示唆に富む。

スティーブ・ジョブズに代表されるような米国風プレゼンに染まり切り、
それがベストだと思い込んでいる御仁には是非読んでいただきたい1冊である。
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『古都』
レビュータイトル:ただただ美しい古都
2018年8月21日

人生望外の喜び。「文学」という単語は、このような小説のために用意されていたように思えるほど。
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『雪国』
レビュータイトル:文学史上最高傑作のひとつ
2018年8月2日

読むべきである。

生きてる間に読みべき小説をいくつか挙げなさいと言われれば、これである。文章ひとつひとつに俳句のような拡がりがあり、たんたんと描いているにも関わらず人間の心の奥底まで入り込んで掻き乱す。著者の知性によって文字列が芸術に昇華させられた瞬間を目撃することができる。読んだ後、人生観が変わるかもしれない文学の最高傑作。



2017年12月18日月曜日

夢野久作「ドグラ・マグラ」

出会い頭の事故のようなものである。長年読むのを躊躇っていた「ドグラ・マグラ」をついに読んでしまった。やってしまったものは仕方がない。淡々と読後処理をしたいと思う。まさか自分がこのような感想文を書いてしまうとは、何とも作者の罠にまんまとハマってしまったようで悔しくもある。

以降ネタバレを大いに含むので、これから読む予定の方は要注意。


本作を読む予定がない方にも、一言お伝えしておくことがある。ドグラ・マグラという小説は非常に難解なため、感想文も難解に成らざるをえず、言いたいことを的確にお伝えできるかどうか正直自信がない。感想文の内容が複雑で読了までの道のりが険しいことをお断りしておく。さらに。僕の自分勝手な感想を読んだ後、もし万が一本作に興味が湧いてしまって結局自分で読むことになったとしよう。するとおそらくは、あなたは僕とは異なる感想をもつはずである。その時に「こらーっ。ぜんぜん違うじゃないかーっ!」といった文句は、ナシにしてもらいたい。本作はそれくらい予防線を貼らないといけない危険な代物なのだ。

「手っ取り早く内容を把握したい」という方には漫画をお勧めする。読破するのに1〜2週間はかかるであろう本作も、漫画ならおそらく30分もかからずに読了できるだろう。

漫画の絵柄が苦手であったり、漫画自体が苦手な方は、安部美幸氏のドグラ・マグラ論がうまく粗筋を伝えている。

 漫画にしても論文にしても非常に分かりやすい。しかしこれは漫画や論文の書き手なりの解釈に行き着いたお陰で分かりやすくなったのだ。ドグラ・マグラは、読み手によって解釈が異なるよう巧妙に細工がされている。さらには読むたびに印象が変わるようにも仕掛けがされている。本作を読まぬまま概要に手を出したとしたら、恐らくあなたは「赤の他人の思考に自らを委ねていいのかねっ?」と、ドグラ・マグラから問われることになるだろう。

 さて。御託はここまでにして、ドグラ・マグラを僕なりに紐解いていく。

 最も重要なヒントは、作中に出てくる小説「ドグラ・マグラ」である。さあ、もう訳がわからなくなってきたぞーっ。ドグラ・マグラの中には、本作と同じタイトルの小説「ドグラ・マグラ」が出てくる。所謂メタ・フィクションという手法であるが、極めて示唆的な仕掛けである。作中作の「ドグラ・マグラ」なる小説の全文は、当然のことながら明らかにされることはないのだが(明らかにしたら無限に発散する)、出だしと終わりが僕たちの手にしているドグラ・マグラと同じである。つまり、本編と作中作との同一性が示唆されているのである。

 では、作者夢野久作と、作中作の作者は同一人物なのだろうか。作中の「ドグラ・マグラ」の作者は、探偵小説好きの若い大学生で、探偵小説の中でも心理学と精神分析と精神科学方面のものを好んでいるという設定が明かされる。この姿は、まさに若き夢野久作ではないか。

 さらに、作中作「ドグラ・マグラ」の作者の設定には続きがある。
 
 作者は精神に異常をきたしており、ある幻覚錯覚に囚われた結果、奇々怪々な惨劇を引き起こし、精神病室に収容されたとあるのである。実は、この設定とほぼ同じ設定がされてた登場人物が、ドグラ・マグラの中にはあと三人出てくる。まず1人目は、本作の中で最も重要な人物であり、本作の主人公の名として上がる「アンポンタン・ポカン」君、次にその主人公が入院している大学病院の教授から教えられる青年「呉一郎」君。そして本作ドグラ・マグラの語り手である一人称の「私」である。この3者は、いずれも20歳くらいの青年であること、自分の生まれ故郷や両親の名前、さらには自分の名前すらも忘れていること、そして非常に危険な遺伝的精神病の発作を持つが故に、九州帝国大学医学部精神病棟の七号室に収容されていること、といった共通項を持つ。そしてもっと言えば、この3人と作中作「ドグラ・マグラ」の作者は、どうやら同一人物である可能性が暗に示唆されているのである。「ドグラ・マグラ」の作者とは誰か。夢野久作に他ならない。

 つまり、これらの登場人物は、まさに作者の夢野久作、あるいは夢野自身の部分投影に他ならない。ドグラ・マグラとは、ミステリー小説という体を装った、夢野久作の心理的私小説という側面を持っている。

 ドグラ・マグラをメタ・フィクション仕掛けの心理的私小説と捉えることで、作品の骨太な構図が浮かび上がってくる。同一人物とおぼしき作中4名に夢野久作本人を加えた計5名の主張する世界は、夢野久作自身が心の中でふつふつと握りしめてきたであろう、彼独自の世界観とオーバーラップしているはずである。文学青年であった夢野久作は、恐らくかねてより「人間とは何か、生命とは何か」さらには「私とは何か」といった、哲学的な難題に日々悩まされていたのかもしれない。夢野久作の同時代には、かの有名な推理小説作家である江戸川乱歩や、ドグラ・マグラ同様日本三大奇書のひとつに数えられる「黒死館殺人事件」の作者である小栗虫太郎らなど、人間の根幹に触れようとする文学者が多かった。西洋哲学の影響をもろに受けていた彼らは、どこかそのようなことを考えること自体、ファッションである。そして、日常生活の中で何の役にも立たない、このような哲学的疑問に苛まれている自分と、自分を取り巻く“普通”の人々との落差から、自分の狂気性をまざまざと見せつけられ愕然としながらも、半ば恍惚としていたのではないだろうか。

 結果生み出されたのが、作中作「ドグラ・マグラ」と同様、作中の登場人物の手による作中作であり、本作のトリックを支える要である「胎児の夢」と「脳髄論」の2編の学術論文である。この2編の主張は、我々の現代科学の常識を真っ向から疑ってくる。

 「脳髄(いわゆる脳のこと)は、物を考えているところではない。考えているのは全身の細胞一個一個であり、脳髄はそれらの信号を束ね、外部との相互作用を実現しているに過ぎない。」


 「胎児は一個一個の細胞が記憶している進化の歴史、そして祖先の所業の夢を見ているのだ。」


 この考えに行き着いたことによって、夢野久作は孤独な狂気から解放されたのだろう。特に胎児の夢の思想は、夢野を大いに救ったことであろう。論文「胎児の夢」の結論は、言うなれば「自分が他者と相容れないのは自分のせいではなく、自分の祖先からの因果によるものである」といった、ある種の責任転嫁と同義だからである。つまり極端に言えば、自分の狂気は生命誕生からの因果である、と結論づけたのである。この論理の行き着く先は、多かれ少なかれ全ての人間は狂人ということになる。その証拠に同じ学術論文の並びで「世界の人間は一人残らず精神病者」「地球表面上は狂人の一大解放治療」という主張が堂々となされている。

しかも、である。これらの論文や談話は、作中の語り手である「私」を通して行われていない。世紀の大天才であり、稀代の大狂人であり、ドグラ・マグラ事件全ての首謀者である、九州帝国大学精神科教室主任教授の正木敬之の主張である。科学に身を売ったとも言える正木教授は、人非人的な手法で自身の仮説を証明しようとし、数々の人体実験を試みる。彼は「脳とは精神や心を支えている全てである」という近代西洋科学における唯物論的思考に対し、命を賭して一撃を加えようとしているのである。それはそうであろう。もし仮に脳が精神や心を支えている全てであるのならば、「私」の狂気はその場でなんとか成るはずじゃないか、おかしいではないか。

そして、この正木教授こそが「私」の父親なのだ。

 奇妙な考えを引き起こす原因は自分の父親の血である。もっと正確に書けば、父親というのはあくまでも象徴である。その血は連綿として古代から受け継がれてきたとしたのであり、まさに「脳髄論」の真髄そのものである。この作品、探偵小説あるいはミステリー小説という形式をとってはいるが、作者の哲学的な思いの丈を伝えるための手段としか思えない。自分の処女作が賞を獲ったという知らせを受けた直後から、ドグラ・マグラの原稿は書かれ始めている。夢野自身が作家になろうと決意した、はるか以前から作品の構想があったとしか思えないのである。「この作品を書くために生まれてきた」という作者の談話が残されているが、この言葉は一片の曇りのない、嘘偽りのない真実であろう。10年以上の歳月をかけて推敲された本作は、どこをどう読んでも命を削った感がある。以前感想文を書いたマークトウェインの「人間とは何か」と、どこか同じ空気が漂っている。

 「脳髄論」は恐らく、夢野と同時代を生きた動物学者 丘浅次郎が記した「脳髄の進化」にヒントを得たものであろうが、生物の進化論を心理遺伝学というコンセプトにまで昇華させた夢野は、間違いなく奇才である。本作が書かれた時期からすると、遺伝子の実体であるDNA二重螺旋の意味が発見されるのは遥か遠い未来である。身体中すべて一個一個の細胞に、古代からの記憶が等しく封印されているという事実は、当時の人々にはまだ知る由もないことであった。そんな時代に、限られた知識と思考だけで「脳髄論」に至った夢野久作とは、とんでもない奴だと言わざるを得ない。

 一見、自分の問題を他者へなすりつけたようにも見える「脳髄論」であるが、別の見方をすれば、夢野久作なりの優しさと解釈することも可能である。悩んでいる君、君も僕と同じだよ、そして生きとし生けるものすべてが根底では繋がっているよ。これを夢野久作特有のはにかんだ優しさと評してみてはいかがだろうか。

 奇しくもドグラ・マグラが刊行された1935年、夢野久作に多大な影響を与えた父親であり、当時の日本の黒幕とも言われた政治活動家杉山茂丸が急死。そして翌年の1936年3月11日、父親の遺産整理をしている最中に渋谷区南平台町の自宅で客人を迎えた夢野久作は、「今日は良い日で…」と言いかけて笑った時に脳溢血を起こして昏倒、そのままこの世を去った。まさに天命、予め決められていたとしか言いようがない最期である。

2017年1月30日月曜日

マーク・トゥエイン「人間とは何か」

 「トム・ソーヤの冒険」で有名な、マーク・トゥエイン最晩年の作品。

 ひとりの文豪が生涯を通して考え抜いて到達した境地が描かれている。極めて哲学的な内容であるにも関わらず、さすがは少年冒険物語を得意とした文豪。読みやすい。全編老人と若者の対話という形式で提供され、老人が例え話を交えながら「人間とはなにか」をグイグイ説いていく。哲学書にありがちな小難しい用語を使うことはなく、重厚な主張を展開する。

 ただし。本書の場合、そのわかり易さが逆作用したこともあるようだ。マーク・トゥエインは本の完成後、誰よりも先に最愛の妻に読ませた。敬虔なカトリック教徒であった妻は悲観的な世界観を呈する内容にショックを受け、作品を拒絶したと伝えられている。妻は書かれていた主張を完全に理解できたのであろう。続いて娘に読ませるが、やはり反応は母親と同じであった。ごく普通の生活を営む人間であった彼女らにはとても受け入れられるような代物ではなかったのである。

 彼女たちにとって衝撃的だったかもしれないが、最愛の家族からの拒絶は年老いた文豪にとってもショックであったに違いない。人生を賭けて到達した思想が、一番の理解者であったはずの家族に受け入れてもらえなかったのは堪らないことだろう。さすがのマーク・トゥエインも、家族の反対を押してまで本を出版をすることはできず、結局妻がこの世を去ってから出版されることになる。かと言って家族に受け入れられないものが世間から受け入れられるはずもなく、文豪の名は隠し、匿名で、しかも自費出版という非常に不本意な形での出版となった。彼はそれでも重圧に負けることなく出版に踏み切った。自身の思想をどうしても闇に葬ることはできなかったでのある。これはよほどの事態ではないか。その衝撃の内容やいかに。

 老人は、本書の中で徹頭徹尾「人間は機械に過ぎない」と説く。人間は周囲からの入力を得て、運命的には決定している出力を出す機械だと断じている。人間が行動を決める際の唯一の原理は自己満足であり、そこには神の教えもなければ、善も悪もない。はたまた自由意志もない。かなり過激な思想を、この老人は口調穏やかに、しかし若者をグウの音も出ない程の力強さで説き伏せていくのである。若者は何度もそんなことはないと抵抗を試みるのだが、老獪な老人を前にしては為す術もない。敬虔に神を信じていた妻や娘がショックを受けるのも無理はない。特に病弱で死を目前に控えていた妻は、自分の人生をつくづく悲観したかもしれない。

 しかし、キリスト教圏の外で生まれ育った現代人の僕は考えるのである。この思想は今の自分達にとって、そこまで過激なのだろうか、と。

 巷で話題の人工知能を考えてみよう。現段階の人工知能はまだまだ幼稚なものであるが、囲碁名人をニューロンの思考で打ち破った実力と方法論を考えれば近い将来人間並みの思考を備えた人工知能が出現したとしてもおかしくない状況である。所謂シンギュラリティ。もし近い将来人間並みの知性を備えた汎用性の高い人工知能が出現したとしたら、老人の主張は俄然現実味を帯びてくる。人間が作り出した人工知能には神もなければ善も悪もない。そこには恣意的な自己満足だけがあることになる。人は再び、人間とはなにかという問いに直面せざるを得ないではないか。

 機械論ではないが、比較的近い思想がアジアにある。他ならぬ仏教がそれである。仏教ではあなたという自己は無く、自己はあなた以外の全てであると説く。全は個であり、個は全である。つまり自己は世界と等価であるという空の世界こそ、この世の真理であるという。

 自己の自由意思の存在を無いものとした上で、神もなく善も悪もない、個は全である、という仏教の世界観は、よくよく読み解くとマーク・トゥエインの主張にほぼ等価であることがわかる。しかも全文に渡り、マーク・トゥエインの筆からは悲観的な雰囲気は一切なく、むしろある悟りの境地に到達した一種の満足感のような、恍惚にも近いような印象を受ける。どうやらこの思想は彼にとってそれほど不快な世界ではないようだ。自分が世界に完全に溶け込むこと、それは悟りの境地だ。自己が消失しても世界が自身であり自身が世界となるならば、永遠に安寧でいられるだろう。キリストの教えに育った人間にとっては、これはまさに約束の地シオンへの到達であり、ある意味どの宗教を信仰する人間にとっても、全ての人にとって悟りの境地とも言える。しかし幼少期からキリストの教えに忠実に育ち、なんの疑問も持たずにきたある意味「普通の人」である彼の周囲の多くの人々にとっては、マーク・トゥエインの悟りの真意には気付かず、かえって逆の意味に捉えてしまったことだろう。

 マーク・トゥエインは、この後、「人間とはなにか」の続編とも言える「不思議な少年」を執筆している。巨匠、この小説には相当苦労をしたようで、結局のところ未完で終わってしまった。途中二度にわたる大掛かりな修正を行ったため、結末の違う未完原稿が三種類もある。このことからも周囲の賛同を得られることのなかった文豪が、いかに「人に伝えることの難しさ」に悩み、苦悩したかがにじみ出ている。

 不思議な少年では、全知全能の神「サタン」が少年の姿で現れる。サタンの語る人間は相変わらず機械論的であり、運命決定論的である。そして神だけが人間の運命を好き勝手に変えることができる自由意志を持っていると説く。何より面白いのは、その神が純粋無垢な少年の姿をしていることだ。この少年は本編の中で、その純粋無垢な姿の通り、善と悪という概念を持たず平気で人間の運命をもて遊ぶ。

 神は不可知の象徴である。小説中では登場人物の三人の少年だけがこの神の存在を知ることになるが、マーク・トゥエインが言うところの神の本質とはあくまで不可知な存在である。つまり、この世が機械論の世界であったとしても、不可知な存在は想定可能であるとマーク・トゥエインは暗に示しているのである。これこそマーク・トゥエインなりの、キリスト教を忠実に信じる人々への回答なのかもしれない。「人間とはなにか」が一元論というすっきりとした単純な世界であるなら、「不思議な少年」は二元論再構築への新たな挑戦と読み取ることができる。「不思議な少年」を未完のままとした文豪の迷いは、人工知能に直面している僕達の苦悩とすくなからずオーバーラップする。

 100年前に書かれた二つの小説は、どの哲学書よりも近代的で新しい。今こそ必読の書だと思う。
追記:マーク・トゥエインは、英国心霊現象研究協会の有力な支持者でもある。面白い。

2016年12月22日木曜日

白川静 「サイのものがたり」

「サイのものがたり」 
白川静 著、金子都美絵編・画

 本著は、漢文学者であり立命館大学教授であった白川静氏の膨大な著作の中から、特に「口」という字の原型である象形文字「サイ(口の縦2つの線の上が角のように上に突出した形)」が、神に祈り、誓う時の祝詞を入れる器の形を模したものである、という説を中心に、神への祈りからいかに多くの文字が生まれたかを素敵な挿絵と共に紹介したものです。

 白川氏は、甲骨文字や金文などといった、いわゆる漢字の元となる原始的な文字の発祥において、非常に宗教的、呪術的要素が色濃く出ていることを主張してこられた異端の研究者で、かねてから多くの批判にさらされてきた、アウトローの代名詞のような先生です。しかし、生活の全てが自然頼みであった古代においては、宗教や呪術といった世界は切っても切り離すことのできない、今でいうところの科学のようなものであったことは想像に難くありません。白川氏の説は、特に殷周代社会に色濃くあった呪詛による政治形態が重用されていた時代を研究対象とする多くの古代中国史研究者に受け継がれ、独特の発展を遂げました。

 本著の中では、我々が日常的に使っている「口」を文字の中に含むさまざまな漢字が、どのような思いを受け生まれたのかを、原型の象形文字と共に簡潔に、丁寧に説明しています。例えばもうすぐ訪れるクリスマス(聖夜)の聖の字にも「口」は含まれますね。この「聖」という字は象形文字で見ると、耳と口と、人の立つ姿から構成されます。耳で神の声を聞き、それを「口(サイ)」に納める役割をもつ人を「聖」と言い、尊んだため、この字が生まれました。つまり「聖」とは、古代中国においては人間性の最も完成された状態を指す、まさに神聖な言葉だということです。現在、神の世界と人の世界の道は簡単には繋がっているようには見えませんが、今でも心が精爽な「聖」者には、その道が残されているのかもしれません。まあ昨今の聖夜では、電飾でキラキラし過ぎてその道はさらに見えにくくなっているのかもしれませんね。

最初に言いましたが、白川氏の説は独特で、特に日本の文学界ではなかなか受け入れられない方も多いのが現状です。しかし、神様の世界への道が今よりずっと濃く見えていた古代、人がどのような思いで文字を作り、祈りを込め、継いで来たのか。文字は人しか持ち得ない、人にのみ与えられたものです。この文字の成り立ちの美しさに、ひとたび立ち返ってみては如何でしょうか。
written by KS