意識はマジックワードのようだ。この単語を目の前にすると、たとえ聡明な人であったとしても、まるで魔法にかかってしまったように思考が乱れてしまい堂々巡りの議論を繰り返したりする。果たして意識はそこまで神聖な単語だろうか。
私はそうは考えない。意識は脳によって生み出されているのは明らかである。脳のユニットを構成する神経細胞の基本的な動作原理もすでに明らかにされている。ならば、神経細胞のネットワークを組み立てたその先に意識はあるに決まっている。理解まであと一息のところまで来ている。あとは一気に真実まで到達したいところだ。本備忘録では、考えうる方法論をできうる限り分かりやすく書き留めておく。
意識を議論するにあたって、意識の定義を明確にする。まだ実態が明らかではない対象を定義するのは困難ではあるが、それでも同じ対象を観察していないと議論はできない。一方の人が月を見ていて、一方の人が太陽が見ているようでは議論が噛み合うわけもない。
ここでは意識を視覚に限定する。あなたが目を開けた瞬間に目の前に広がるその情景だけに議論を絞る。多くの人が思い描く意識の全体像からすると部分的な定義にはなるだろうが、それでも意識には違いない。目の前に広がる情景が存在することに誰も疑問はないだろう。もっとも共有しやすい定義だと思う。これを意識映像と呼ぶことにしよう。
さて、意識映像は、目が見える方であれば誰もが日々リアルタイムで経験できる。それはあたかも外の世界にあるように感じられるが、これは脳が作り上げた意識の世界である。目から入力される光の情報は、空間的にも時間的にも断片的で歪みも激しく、時折入力が途絶えたりしており、さらには、エッジの情報など特徴だけが脳に伝えられている。意識映像で経験するような滑らかで綺麗な映像は脳のどこにも存在しない。ましてや、色の情報も明暗の情報も最初からバラバラである。脳が作り上げない限り、あなたの経験している意識映像の情報は現れることはない。このポイントは神経科学の基本知識なので再認識しておく必要がある。
意識映像には大きな特徴がいくつかある。そのひとつは他人の意識映像は体験できないということだ。この特徴があるがために、極端な話、人間全員に本当に意識はあるのだろうかとか、いや待てよ動物に意識はあるのだろうか、などの疑問が生じることになるし、意識をマジックワードにする原因にもなっている。意識の主観性である。
たとえ話をする。Aさんが望遠鏡で月を観察していたとする。Bさんも望遠鏡で月を観察していたとする。月はひとつしかないので、観察している対象は同じである。しかし、望遠鏡には覗き口がひとつしかないため、BさんにはAさんが見ている月がどんなものか知りようがない。逆も同じである。これが意識の主観性である。Bさんにとって、Aさんが同じような映像をみているかどうかは、ひとつはAさんとの会話から類推できる。もうひとつは望遠鏡というものが似たような原理で作られているので、まったく違う映像にはならないだろうという類推である。隣の人にも意識映像はあるだろうと考えるのは、おもにこの二点からの類推である。悲しいことに類推以上でも以下でもない。この強烈な壁が意識をマジックワードに追い込んでいく。哲学的ゾンビは、ここから生まれる。
もうひとつ大きな特徴がある。意識映像は滑らかで綺麗である。先ほども述べたが、神経細胞が行っている情報処理は複雑でノイズだらけの電気信号処理である。脳のなかを必死に探し回っても滑らかで綺麗な映像はどこにもない。このとんでもないギャップがさらに意識をマジックワードに追い込む。意識のハードプロブレムのひとつに分類される大問題である。
望遠鏡であれば筒の途中の部分的な光情報を観察しても何も分からないが、最後には覗き口のところで綺麗な月の映像が結像するので、Aさんの替わりにカメラを取り付ければAさんが見ていた映像を可視化することができるのでBさんも見ることができる。望遠鏡なら、このようなカメラが用意できれば誰もが納得できる答えを得ることができるのだ。
さてここだ。脳にはこんな便利なツールは用意できないものだろうか。
意識映像は実在する。そこには体験している主体が取り出すことのできる情報があり、記憶することもできる情報もある。情報は神経細胞のような物質的な実態をもたないので分かりにくいが、実在もしているし機能もしている。意識映像が情報として実在しているなら、それを作り出している脳にはそれと等価の情報が実在していることになる。その情報を取り出すことができれば、意識映像に近づいたことになる。
たとえ話をする。先ほどの望遠鏡が電波望遠鏡だったとする。捉えているものが光ではなく電波なので、そのままの情報ではAさんもBさんも見ることはできない。しかし電波の情報を適切な翻訳をして光の情報に変換することはできる。もとは電波なので、光に変換した後の映像は観察対象の影のようなものではあるが、観察対象の理解は大いに進むことになるだろう。AさんもBさんも同じ映像を観察することができる。意識映像もこのような類ではないだろうか。意識映像は暗号化されていると考えるのである。ならば、意識映像を理解するには適切な翻訳機を開発すればいいことになる。
ひとつの方法は、脳や神経細胞の活動をリアルタイムに、それもできるだけ全脳に近い記録をとり、それをそのまま意識映像に翻訳することである。脳の情報の翻訳ができれば、その翻訳機のアルゴリズムは意識映像の暗号キーそのものとなる。意識映像の理解は格段に進むだろう。最近、夢の可視化などが試みられているが、この路線の研究は極めて重要である。fMRIだけではなく、電気信号、光信号からの翻訳研究の発展を望みたいところだ。
もうひとつの方法は我田引水になるが、人工的な脳を作って意識映像を引っ張り出してみるという方法論である。人工脳を作り意識映像そっくりな可視化を抽出できれば、私たちは有望なアルゴリズムを得たことになる。私たちの意識映像は、外の世界そのものを再現してはいない。色、形、動きなど物理パラメータとは全く異なる独特な特徴を持つことが知られている。その性質を利用すれば、抽出した映像の正当性を判定することは不可能なことではない。
私たちが理解すべきは、情報という概念である。情報の本質は、情報処理を担うメディアに依存しない。ならば、脳から翻訳機を通じて可視化することも可能であるし、人工脳に意識の本質を作り出すことも可能であると考える。
たとえ話をする。電卓でもソロバンでも四則演算が可能である。かたや電子半導体上のデジタル論理演算が計算を担っているし、かたや木でできた玉の位置が計算を担っている。人が操作するという意味では同じ情報ツールであるが、メディアはまったく異なる。しかしながら、四則演算という情報処理においては、電卓とソロバンの本質は等価である。ソロバンが理解できれば電卓の本質は理解できる。電卓を脳、ソロバンを人工脳あるいは翻訳機と置き換えればいい。電卓と比べてソロバンを原始的で拙いと笑い飛ばすのは簡単だ。しかし私たちが理解すべきは、情報という概念であるならば真剣に考えるべき方法論ではないだろうか。
最近、ALifeという分野を知った。生命を作ることで生命を知ろうとする学問だ。ALifeでは直接生命を研究しない。生命っぽいものを追いかける。その意味では哲学だ。しかし再現性がとれる方法論を採用する。その意味では科学だ。作ることを重んじるので、その意味では工学だ。そして、完成したものが人の心を動かせば、それは芸術だ。それはまさしくソロバンの世界。
もし、ドラえもんのような汎用人工知能が街に現れたとき、そしてそれらが人の心を動かした時、人は生命を真に理解するだろうとALifeは期待している。私も同じ立場だ。
もし、ドラえもんのような汎用人工知能が街に現れたとき、そしてそれらが人の心を動かした時、人は生命を真に理解するだろうとALifeは期待している。私も同じ立場だ。
ALifeに興味がある方は、下記の入門記事を参照してくださいませ。入門書でありながらオリジナリティに溢れています。
Introduction to Artificial Life for People who Like AI, Lana Sinapayen (2019)
追記(2019/12/10):意識という言葉を一度捨て去ってもいいか、とも思う。ひとによって捉え方があまりにも違いすぎる言葉。無用な混乱が生じる元ではないかしら。脳の研究、あるいは、人工知能の研究を突き詰めたときに「あ、これが意識と呼んでいたものか、」と後から気づくようなものかもしれない、とも思う。
追記(2019/12/11-12):ハード・プロブレムの議論のところは「きめの問題(grain argument)」のほうに近いとのご指摘を、基礎生物学研究所の鈴木大地さんから受けました。思案して微修正を加えさていただきました。思案はもうすこし続けます。
追記(2019/12/12):本文微修正。
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