2019年12月26日木曜日

音楽が情報なら

音楽は最初黒くて丸い円盤上にある細い溝に刻まれていた。
ペランペランの茶色いテープに入っていたときもあった。
それがある日キラキラ光る円盤から音楽が聴こえてきた。
そうこうするうちに音楽はICチップに埋め込まれた。

そしてついに音楽は雲の上に飛んで行ってしまった。

どこに居ても、
どんなハードにでも、
音楽は雲の上からやってくる。

選択肢も無数。
最新の音楽も瞬時。
なんと便利な。
音楽は最高の形で配信されるようになった。

音楽の本質は情報。
本も映画もすべて同じ。
本質は情報。

では生命は?

バナナでくつろぐピーリーくん

2019年12月11日水曜日

STRANDBEEST EVOLUTION 2018


テオ・ヤンセン(彫刻家、物理学者)が展開するストランドビーストは、風力によってまるで生きもののように歩く。構成する基本単位は細胞と呼ばれ、作品の変遷自体が生物の進化を模している。ストランドビーストは、生命と環境が一体であることを見事に示す。観る人の心を動かす雄大なプロジェクト。これが心を動かすことで生命を理解させる世界。

2019年12月6日金曜日

意識の研究方法についての備忘録

意識はマジックワードのようだ。この単語を目の前にすると、たとえ聡明な人であったとしても、まるで魔法にかかってしまったように思考が乱れてしまい堂々巡りの議論を繰り返したりする。果たして意識はそこまで神聖な単語だろうか。

私はそうは考えない。意識は脳によって生み出されているのは明らかである。脳のユニットを構成する神経細胞の基本的な動作原理もすでに明らかにされている。ならば、神経細胞のネットワークを組み立てたその先に意識はあるに決まっている。理解まであと一息のところまで来ている。あとは一気に真実まで到達したいところだ。本備忘録では、考えうる方法論をできうる限り分かりやすく書き留めておく。

意識を議論するにあたって、意識の定義を明確にする。まだ実態が明らかではない対象を定義するのは困難ではあるが、それでも同じ対象を観察していないと議論はできない。一方の人が月を見ていて、一方の人が太陽が見ているようでは議論が噛み合うわけもない。

ここでは意識を視覚に限定する。あなたが目を開けた瞬間に目の前に広がるその情景だけに議論を絞る。多くの人が思い描く意識の全体像からすると部分的な定義にはなるだろうが、それでも意識には違いない。目の前に広がる情景が存在することに誰も疑問はないだろう。もっとも共有しやすい定義だと思う。これを意識映像と呼ぶことにしよう。

さて、意識映像は、目が見える方であれば誰もが日々リアルタイムで経験できる。それはあたかも外の世界にあるように感じられるが、これは脳が作り上げた意識の世界である。目から入力される光の情報は、空間的にも時間的にも断片的で歪みも激しく、時折入力が途絶えたりしており、さらには、エッジの情報など特徴だけが脳に伝えられている。意識映像で経験するような滑らかで綺麗な映像は脳のどこにも存在しない。ましてや、色の情報も明暗の情報も最初からバラバラである。脳が作り上げない限り、あなたの経験している意識映像の情報は現れることはない。このポイントは神経科学の基本知識なので再認識しておく必要がある。

意識映像には大きな特徴がいくつかある。そのひとつは他人の意識映像は体験できないということだ。この特徴があるがために、極端な話、人間全員に本当に意識はあるのだろうかとか、いや待てよ動物に意識はあるのだろうか、などの疑問が生じることになるし、意識をマジックワードにする原因にもなっている。意識の主観性である。

たとえ話をする。Aさんが望遠鏡で月を観察していたとする。Bさんも望遠鏡で月を観察していたとする。月はひとつしかないので、観察している対象は同じである。しかし、望遠鏡には覗き口がひとつしかないため、BさんにはAさんが見ている月がどんなものか知りようがない。逆も同じである。これが意識の主観性である。Bさんにとって、Aさんが同じような映像をみているかどうかは、ひとつはAさんとの会話から類推できる。もうひとつは望遠鏡というものが似たような原理で作られているので、まったく違う映像にはならないだろうという類推である。隣の人にも意識映像はあるだろうと考えるのは、おもにこの二点からの類推である。悲しいことに類推以上でも以下でもない。この強烈な壁が意識をマジックワードに追い込んでいく。哲学的ゾンビは、ここから生まれる。

もうひとつ大きな特徴がある。意識映像は滑らかで綺麗である。先ほども述べたが、神経細胞が行っている情報処理は複雑でノイズだらけの電気信号処理である。脳のなかを必死に探し回っても滑らかで綺麗な映像はどこにもない。このとんでもないギャップがさらに意識をマジックワードに追い込む。意識のハードプロブレムのひとつに分類される大問題である。

望遠鏡であれば筒の途中の部分的な光情報を観察しても何も分からないが、最後には覗き口のところで綺麗な月の映像が結像するので、Aさんの替わりにカメラを取り付ければAさんが見ていた映像を可視化することができるのでBさんも見ることができる。望遠鏡なら、このようなカメラが用意できれば誰もが納得できる答えを得ることができるのだ。

さてここだ。脳にはこんな便利なツールは用意できないものだろうか。

意識映像は実在する。そこには体験している主体が取り出すことのできる情報があり、記憶することもできる情報もある。情報は神経細胞のような物質的な実態をもたないので分かりにくいが、実在もしているし機能もしている。意識映像が情報として実在しているなら、それを作り出している脳にはそれと等価の情報が実在していることになる。その情報を取り出すことができれば、意識映像に近づいたことになる。

たとえ話をする。先ほどの望遠鏡が電波望遠鏡だったとする。捉えているものが光ではなく電波なので、そのままの情報ではAさんもBさんも見ることはできない。しかし電波の情報を適切な翻訳をして光の情報に変換することはできる。もとは電波なので、光に変換した後の映像は観察対象の影のようなものではあるが、観察対象の理解は大いに進むことになるだろう。AさんもBさんも同じ映像を観察することができる。意識映像もこのような類ではないだろうか。意識映像は暗号化されていると考えるのである。ならば、意識映像を理解するには適切な翻訳機を開発すればいいことになる。

ひとつの方法は、脳や神経細胞の活動をリアルタイムに、それもできるだけ全脳に近い記録をとり、それをそのまま意識映像に翻訳することである。脳の情報の翻訳ができれば、その翻訳機のアルゴリズムは意識映像の暗号キーそのものとなる。意識映像の理解は格段に進むだろう。最近、夢の可視化などが試みられているが、この路線の研究は極めて重要である。fMRIだけではなく、電気信号、光信号からの翻訳研究の発展を望みたいところだ。

もうひとつの方法は我田引水になるが、人工的な脳を作って意識映像を引っ張り出してみるという方法論である。人工脳を作り意識映像そっくりな可視化を抽出できれば、私たちは有望なアルゴリズムを得たことになる。私たちの意識映像は、外の世界そのものを再現してはいない。色、形、動きなど物理パラメータとは全く異なる独特な特徴を持つことが知られている。その性質を利用すれば、抽出した映像の正当性を判定することは不可能なことではない。

私たちが理解すべきは、情報という概念である。情報の本質は、情報処理を担うメディアに依存しない。ならば、脳から翻訳機を通じて可視化することも可能であるし、人工脳に意識の本質を作り出すことも可能であると考える。

たとえ話をする。電卓でもソロバンでも四則演算が可能である。かたや電子半導体上のデジタル論理演算が計算を担っているし、かたや木でできた玉の位置が計算を担っている。人が操作するという意味では同じ情報ツールであるが、メディアはまったく異なる。しかしながら、四則演算という情報処理においては、電卓とソロバンの本質は等価である。ソロバンが理解できれば電卓の本質は理解できる。電卓を脳、ソロバンを人工脳あるいは翻訳機と置き換えればいい。電卓と比べてソロバンを原始的で拙いと笑い飛ばすのは簡単だ。しかし私たちが理解すべきは、情報という概念であるならば真剣に考えるべき方法論ではないだろうか。

最近、ALifeという分野を知った。生命を作ることで生命を知ろうとする学問だ。ALifeでは直接生命を研究しない。生命っぽいものを追いかける。その意味では哲学だ。しかし再現性がとれる方法論を採用する。その意味では科学だ。作ることを重んじるので、その意味では工学だ。そして、完成したものが人の心を動かせば、それは芸術だ。それはまさしくソロバンの世界。

もし、ドラえもんのような汎用人工知能が街に現れたとき、そしてそれらが人の心を動かした時、人は生命を真に理解するだろうとALifeは期待している。私も同じ立場だ。

ALifeに興味がある方は、下記の入門記事を参照してくださいませ。入門書でありながらオリジナリティに溢れています。
Introduction to Artificial Life for People who Like AI, Lana Sinapayen (2019)
追記(2019/12/10):意識という言葉を一度捨て去ってもいいか、とも思う。ひとによって捉え方があまりにも違いすぎる言葉。無用な混乱が生じる元ではないかしら。脳の研究、あるいは、人工知能の研究を突き詰めたときに「あ、これが意識と呼んでいたものか、」と後から気づくようなものかもしれない、とも思う。

追記(2019/12/11-12):ハード・プロブレムの議論のところは「きめの問題(grain argument)」のほうに近いとのご指摘を、基礎生物学研究所鈴木大地さんから受けました。思案して微修正を加えさていただきました。思案はもうすこし続けます。

追記(2019/12/12):本文微修正。

2019年8月22日木曜日

実装主義 = JUST DO IT.

科学者はワガママです。
基本、人の言うことに耳を貸しません。
聞いているようで聞いていません。
聞いているように見えるとき、
科学者の思考は宇宙の果てまで飛んでいます。

しかしそんな科学者がふと立ち止まってみると、あれ?
非難轟々の状況だったり、孤独に陥っていたり、
色々と嫌なことに気がつくことがあります。

ましてや、
コンピュータで人工脳を作ろうとしたり、
コンピュータで人工生命を作ろうしたりなんて、
そりゃあそうでしょう。

そんなヤツに文句のひとつも言いたくなりますわね。

でも、
科学者は立ち止まることはありません。
下手な理屈も議論も、そして論理さえも好みません。

実装あるのみです。
僕は、それを実装主義と呼びます。
コンピュータに、脳を、生命を実装するのです。

これだけのHardwareとSoftwareが揃った時代があるでしょうか?
この環境を享受できるのは、この時代を生きる僕たちだけです。
それがどれだけ幸せなことか。

なければ作ればいい。
実装しよう。

JUST DO IT.


追記:企業広告ではありません(笑)。でもこのフレーズは好き。

2019年8月16日金曜日

この2つのアイテムで生命は永遠に宇宙に蔓延る

生命にとって最初の脅威になるのは、太陽の寿命である。

50億年後には確実に太陽は終焉を迎え、同時に地球も終焉を迎える。
生命はそのときどう進化しているかは全くの不明であるが、
もし地球にだけ生息していれば全滅は確実である。
太陽系のどこにいても全滅を免れることはできない。

となると、太陽系以外の居住地を求める以外ない。

しかし、地球からの距離を考えると、
どこに移住をするにしても生命の寿命は大きなハードルになる。

そのハンデキャップをクリアしてくれるのが、人工知能(ヒト並みあるいはヒト以上の電子頭脳)と人工太陽(小型の核融合発電プラント)である。

宇宙という悠久の時間を生き抜くためには、人工知能の長寿命性は必須である。有機体の生命を存続させるか否かは別問題として、いずれにしても人工知能の存在は必須である。また、宇宙には太陽のようにエネルギーをふんだんに与えてくれる存在がいつもいつもそばにいてくれるわけではない。そこで人工太陽だ。

人工知能と人工太陽は生命が生む出すべき、究極のアイテムと思われる。


2019年8月15日木曜日

生命と自由意志(思考実験)

生命と自由意志は、言語と揺らぎで成立している。

1)限られた数の離散的シンボルが順列するのが言語とする。言語は環境との自律的な相互作用が可能で、環境を圧縮的に学習する。離散的シンボルであるがゆえ正確な記憶と複製が可能であり、また偶発的なノイズによる改変も容易である。この改変によって過去の学習だけではなく、未来の予測も自由となる。生命の誕生である(もし生き残ることができたらね)。

2)自由意志も基本は同じである。神経細胞によって過程が高速化しただけである。いずれも本質は言語であるが、速さと構造の複雑さ故に自由度のポテンシャルは後者のほうが格段に高い(ような気がするわい)。

3)言語さえあれば、何れも人工的に生み出すことができる。その広義の言語とは、数学言語でも計算機言語でも実現可能である(実装主義)。




2019年6月21日金曜日

太宰治「人間失格」

長年、ずぅーーーと書けなかった人間失格の書評。
どう書いたところで自分をさらけすぎて嫌になる。
思案して思案してようやく書けた。
以下、アマゾンの書評に投稿したまま。

==================
【人間とはかくも哀れな・・・】

喫茶店のママのセリフ、
「葉ちゃんは・・・神様みたいないい子でした」
これに尽きる。このセリフによって読者は人間社会の泥沼を思い知らされる。

この小説の主人公である大庭葉蔵には、
どうやら人間特有の欲望というものが欠けているようだ。
そんな自己中心的な心を持たない葉蔵が、
女性から神の子のように見えても不思議ではない。

では葉蔵が神の子なら、葉蔵以外の人間はいったいなんだろうか?
人間を失格した葉蔵が神の子なら、人間を合格した人間は?
その答えは誠に恐ろしい。

太宰治はとんでもない才能をもった作家ではあるが、
その筆は必ずしも安定したものではない。
しかしこの人間失格に限っては、究極の筆致である。
「末期の眼」をもった彼に何かが憑依したような別次元の作品となった。
その瞬間太宰は、川端康成が憧れ続けた「魔界」に踏み入れたに違いない。

万人にお勧めできる作品ではない。
読んで元気が出るという代物ではない。
しかし、人間、自分、社会の真の姿を知りたいと
切に願うのであれば読むべき一冊である。

==================
https://www.amazon.co.jp/review/R2BPSK12H0PGF7/ref=cm_cr_srp_d_rdp_perm?ie=UTF8

==================
ちなみに、日本で最も読まれている小説は、夏目漱石の「こころ」が1番で、太宰治の「人間失格」が2番だそうである。アマゾンの評価数も両小説は飛びぬけていて、「こころ」が688個で星4.4の評価、「人間失格」が604個の星4.4の評価でそれを裏付けている。どちらも暗い小説であるが日本人気質に合うようだ。次は「こころ」の評価を書くかな。
==================



2019年5月15日水曜日

おじいさんのロボット

コンセプト:
基礎科学

タイトル:
おじいさんのロボット

備考:
絵本にしたい

以下本文:

山あいの街。

人はみな真面目に働いています。
みんな誰かの役に立つ仕事をしているのです。

その男は街のはずれに住んでいました。

仕事をしていません。
とても貧乏です。
それでも働きません。
本ばかり読んで暮らしています。

街の人たちはそんな男をバカにしていました。

ちいさな女の子だけが男のことが好きでした。
男のためにパンとかスープとかをこっそり運んでいました。

それでも男は本ばかり読んでいます。

あるとき。

男はなにかを作り始めました。
電気と金属と木を合わせてトンテンカンテン。
完成したのはロボットでした。

女の子は大喜び。
男の初めての仕事らしい仕事。

噂を耳にした街の人たちが集まってきました。
役に立たない男がいったい何をやったのか。
ロボットはとても立派でした。
ちょっとばかし期待が膨らみました。

ところが。
ロボットは奇妙な音をだすだけ。

街の人たちはがっかり。
やっぱり役立たずの男だと散々でした。
女の子だけがロボットの奇妙な音を
楽しそうに聞いていました。

それから。
男はロボットを次々作りました。

いろんな形をしたロボットでした。
でもロボットは奇妙な音をだすだけ。

あるロボットはキャタピラ。
あるロボットはタイヤ。
あるロボットは二本足。
いかにも動きそうなのに。

そうこうするうちに
男はおじいさんになり
女の子も随分大きくなりました。
おじいさんになっても男はロボットを作り続けました。
家は奇妙なロボットでうめつくされました。

ある日。
女の子が訪ねていくとおじいさんが倒れていました。
女の子に「いままでありがとう」と笑顔を残して死んでしまいました。

男は最後にロボットを一体完成させていました。
最後のロボットはひときわ大きく美しく輝いていました。
でもやはり奇妙な音をだすだけ。

街の人はやはりバカにしました。
最後まで役に立たないヤツだった。
役に立たないガラクタばかり。

女の子はおじいさんのお墓の前でシクシク泣いていました。

するとどうでしょう。
ひときわ大きなロボットが動き出したではありませんか。

大きなロボットはゆっくりゆっくりと女の子に近づきました。
女の子が振り向くとロボットはニッコリ笑いかけました。
「だいじょうぶ。おじいさんは僕のなかで生きている」
女の子はびっくり。
泣き顔で笑い返しました。

ロボットは音をだすだけではなかったのです。

おおきなロボットは女の子を肩にのせ
ゆっくりと町に向かって歩きだしました。

つられるようにしてロボットたちが動き始めました。
女の子とロボットたちはぞろぞろと街へ向かいました。
誇らしげな大行進です。

ロボットが街の角々に立ちどまりはじめました。
街の人たちはびっくり。

大きなロボットは街の中心の教会で停まりました。
女の子の目はまんまる。
いったいなにが起きるのかしら。

おおきなロボットからひときわ大きな音が響きました。
それにつられるようにしてロボットたちが次々と音を繋ぎ始めました。
音は街中を駆け巡り山に反響して素敵なメロディーとなりました。
ロボットたちの音がシンフォニーとなったのです。

この世界に音楽が発明された瞬間です。

いままで体験したことのない音が奏でる素敵な空間。
なんという心にしみる素敵な世界だろう。

もちろん一番感動したのは女の子でした。

男はすぐに役にたつことはありませんでしたが
働く街の人たちに音楽という素敵なプレゼントをしたのでした。

2019年5月8日水曜日

変態ライダー マルク・マルケス考

現役の「変態ライダー」である。
この人だけはバイクに興味のないひとにも伝えねば。

彼はバイクレースの最高峰であるMotoGPに2013年、20才の若さで参戦。で、デビューイヤーにいきなりのチャンピオン。その後、実に6シーズン中5シーズンチャンピオンに輝いたまぎれもない天才ライダーである。

その真骨頂は変態テクニックにある。
下の動画をご覧いただきたい。


2013年、2014年と2シーズン連続チャンピオンとなり、迎えた2015年シーズン・アメリカGP予選での出来事である。

予選終了間際、マシントラブルによりメインストレートで彼のマシンは止まってしまう。残り時間は3分。この時点で予選7位。普通ならここで諦める。ところが彼はピットウォールを飛び越えて全力でピットレーンをダッシュ(動画19秒あたり)。フルフェイスヘルメット着用のままのダッシュがどれだけキツイか。

そのまま一瞬も休むことなくスペア用マシンに乗り込み(動画30秒あたり)、予選残り時間は2分30秒。あとは動画の結末の通りだ。

圧巻は動画2分14秒あたりのコーナーへの突っ込み。あまりのハードブレーキでハイサイドを起こしそうになるマシンを後輪を浮かせて一輪で制御、それでも暴れそうになるマシンを、足で地面を擦ってなだめている。なんと。足を第三のタイヤとして使っているではないか。相手は1000ccのモンスターマシンである。変態という言葉しか思いつかない。

私は1100ccの超弩級のモンスターマシンを駆っていたことがあるからわかる。まともな人間には、こんなことはできない。ぜったいにできない。


しかし、この動画。彼の超絶変態テクニックが最大の売りではない。
「ワンチャンあるなら、どんな状況でも絶対に諦めない」
これこそがチャンピオンの資質なのだ。

【20201016追記】
https://twitter.com/MotoGP/status/1316975631524110336?s=20
2020のフランスGPはレジェンド級の名レースとなった。

すでに変態ライダーマルクは骨折でいない。チャンプポジションにはいったい誰が!?の混戦状態だ。

弟アレックス。2019のGP2チャンプだ。こいつも変態なのか?と鳴り物入りでGP1にやってきたが、はじまってみれば、当初そんな様相もなかったのだが、このフランスGPで変態であることが判明した。ひょっとしたら兄さん以上の鬼神かもしれない。レインコンディションでレースの後半に最速ラップを更新し続けた走りは本物だ。面白くなってきたぞ。


2019年3月7日木曜日

寺山修司考

私のソウルメイト(と勝手に思っている)寺山修司氏の命日(5月3日)が近づいてきたので、錬金術師寺山の言葉の中でも特に私が暗記しているものを、勝手ながら私見と共に羅列しておこうと思う。備忘録を兼ねて。

しっかし寺山はマジで暗い。しかも粘調性がある。
「だから青森は…」という語句を、後ろの点々を含めて寺山と名付けたい。
いや、後ろの点々だけで良い、あれは寺山にそっくりだ。
寺山はいつも真っ暗地獄の真ん中でじっと座っている。
彼が闇の中でただ座す様は、さながら冥界の泰山府君のようだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1. 全く、最低に汚ねえ…
(映画「勝手にしやがれ」ラスト)
*はいでた、語句の後ろの寺山。「汚ねえ」の前に「最低に」という最低な形容詞をぶっこんで来る辺りに、奴の性格の悪さが滲み出ていて草生える。

2. どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない。人間に与えられた能力のなかで、一番素晴らしいものは想像力である。
(ロンググッドバイ)
*私は飛ぶ手段が極端に少ない人間である、と自ら公言してはばからないその姿に、胸がすくような思いがする。

3.人間は中途半端な死体として生まれてきて、一生かかって完全な死体になるのだ。
(さらば箱舟)
*寺山はこの言い回しが大好物。きっとどこかの飲み屋でペロッとしゃべったこの言葉に自ら勝手にツボッたのだろう。自分が死体って発想が寺山の真骨頂。この暗さこそ寺山。そうでなくちゃ寺山の名が廃る。個人的には「懐かしのわが家」に出てくるもうひとつの方が好き。「ぼくは不完全な死体として生まれ、何十年かかかって完全な死体となるのである」。彼は満足な死体になることができたのか。血反吐吐きまくったせいで血だらけだった布団は、きっと花びら舞い散る石棺のようだっただろう。私も、最期に晒す自らの姿が最低に汚ねえ死体、って結末だけはごめんだ。



4. 少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の死の苦しみと「食うべきか、勝つべきか」の二者択一を迫られたとき、食うべきだと思った。hungry young menは angry young menになれないと知ったのである。そのかわり私は詩人になった。そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは朝飯前でなければならないな、と思った。
(ポケットに名言を)
*うまい、山田くん座布団2枚あげて。くらいの名言。私事で恐縮だが、私はこれまでこの言葉にどれだけ救われてきたか分からん。いつか殺す、ぶん殴る、と思うくらい誰かを憎んでも、いかんせん生来の物理的ポテンシャルの低さだけはどうにもならんので。詩人は言葉のプロフェッショナルだから、言葉を駆使して人を殺めることもできるはずだ。それがどうにも羨ましく、魅力的だと思っていた。ちなみに、人の胸の中を言葉でぐさりとやるっていうのは何もリアルに殺すと言っているのではない。自分が嫌いな人間は、往々にして相手もまた自分のことが嫌いである。つまり自分が嫌っている人間=自分の存在を疎ましく思っているであろう人間の心の中に、自分という存在を消えない傷として残す、ということを意味している。これこそ超タチの悪い嫌がらせ。さすがキングオブ陰険寺山修司。

他にも暗記している言葉はあるけど、あまり一気に書きすぎると、人の心に余計なドロドロを残してしまうので、また今度気が向いた時に。

Written by KS

2019年2月28日木曜日

脳は作って使えばわかる(実装主義)

先日投稿した記事【脳は作ればわかる】の続きです。

先日の記事では、『LSI(大規模半導体集積回路)が、これまでの神経科学の手法では理解できないだろう』という批判に対して、「作ればわかる」という主張をしました。

この主張には、大事な続きがあります。

これまでの神経科学の主要な流れは、神経細胞を見ることにありました。形態を見たり、活動を見たりの、データ観測(実験)です。これに対して、近年別の潮流として「作る」が重要視されています。いわゆるモデル研究(理論)です。「見る」と「作る」のキャッチボールがなされたときに、神経科学は大いに進むことに違いありません。

でも、まだ不足しているポイントがあります。それは「使う」という概念です。

例えば、LSIを完全に復元できたとしても、実際に使って見なければ、その機能や性能はわかりません。LSI上で動いているOSやアプリを復元する必要がありますし、なによりも、そこに何が入力され、何が出力されるのかを再現しないといけません。つまりハードウェア上を流れる「情報」を再現する必要があるのです。

脳は孤独なハードウェアではありません。常に環境から感覚情報が入力されており、独特な主観的世界を作り出し、身体を通じて運動としての出力を行い、さらにその出力は感覚情報に影響を与えています。これまで心理学が取り扱ってきたような、情報の中身までを、現実に即した形で再現する必要があるのです。

昨年発表した論文では、「作る」だけではなく「使う」をかなり意識しました。
「Illusory Motion Reproduced by Deep Neural Networks Trained for Prediction」

この論文では人工的に作り上げたモデル脳に、実際にヒトが見るであろう「景色」を入力しています(下の動画参照:First-Person Social Interactions Datasetからの引用)。頭の上にカメラを付けて、ただただディズニーランドをうろうろ歩いて撮った動画ですが、これこそがヒトの脳にとって自然に近い入力情報となります。



その上で、ネットワークが作り出すアウトプットと、ヒトが実際に経験している「知覚体験」と一致するかどうかを検証します。この論文では「錯視」を使いました。あくまでもヒトがリファレンスです。

もちろんまだまだ穴だらけの研究です。本当に現実に即した情報のやりとりを再現するには、やるべきことが山積みです。それでも、この先「見る」「作る」「使う」の三位一体がなされていくなら、神経科学は飛躍的に発展すると信じています。

公共事業でいうところの「箱モノ」を考えていただければよいかとおもいます。どれだけ立派な建物を建てたところで、使わなければ意味がありません。コンサートホールの価値は、そこで何が演奏されるかにかかっているのです

2019年2月5日火曜日

夢野久作の「ドグラ・マグラ」を学んだ深層学習ネットワークが自由気ままに文章を書いてみた

 熟知しおるらしき事は、この私の中に同時に、同時に大の大切の大切の天室に八しているのである。トトハハのでしまったのです。その大切の少女の手には、その少女の大切の手に入わしているのでは、新見しているのでした。それは後の光りの大切の君の上に入わしているのではないか。

 さ……そうして、それと向いになっているのであろうところは、その中に、その実験の大学の大きなのは、その実験の大学の大学の私は、その方へ取っているというのだ。そのその中に、その中に同じのであった。その一度の大きなが、同時に、大きないというになって、その方になっているところになっているのであろう。もとの位置に突立っているのだ。

 という方が又は、その中に私であった。正木博士の最後に、君の発態していると、そのその人を質問の又は、同時に、又は問壇の出来ないと、君がその中に御座いますと、同手にして調査の暗涙とが、又の間に引っている。そうしてその正狂である。

 ……日の虹拡が、その発物何もかも一思いにブチ毀しているのである。その御底の大きなのであった。その先生の大きなものであるが、その実に、その発用の出来たようで、それから、その発発の絵巻物の夢の大きなのであるが、そのままの心理のこの絵巻物の大きなのであった。その実は、それはその絵巻物の大きなのである。そのままに、その実験であるが、それももうちと同時に、そのままだよ。その頭を悪のためにしまった。

 その直は、その言葉をしているのである。その訳が、その精神科学的の研究の精神病者に、有を見ていたので、そんなのこの実験の大きで、それから、その『名指の女の大切の拠に、御見たようで、それはもって右の方から、黄金色の輤犯罪の夢の心理遺伝の又は、この実験の心理遺伝の方が、その実験の又、この細胞の脳髄の又、この時にこの時にこの実験のこの科学の方が又、方がないのであろうところであるが、この事があらぬ結果が、これはこの実験の大学の夢の中にして、この少女の私の方がなくなるのであろうというとこの疑うにも又、又もなく学絞が手を過ぎないのだ。

 今に大学に這入ったら精神病行のかをその私のないのたるのなんであった。その前のおもない事の実験をしてイに一番とならるウンは、その地獄場吠のを息をないなかっアンナォの大のガコたいのに、担そしてガ」…お……かから……という美しにてそのどはオをアエしていないが、そのをオもないる。たとえば、仲間を押え、イスを振ざついた、そのおりとそ。その大までもトというとアプという、そのさよその、ットスを御座りた。そフン、。そのこフンを振り、に関する伝説を知っている。それはその間にしているのであろうというのであろう。

 その夢の心理遺伝の全体の全国の心理遺伝の実験の心理遺伝のままによっているのであろう。その全身の実験の御見切ののである。その心理遺伝の全身の心理遺伝の全身の全身の心理過去のような心理遺伝の心理遺伝の場合のとこる記憶が、スッカリ遊離した、そッとのなまいたよしたような、それはそその入、その手の場に、口のッとのないたしッとしそ、先生ッと、キチないしているというのである。そのその間になったがというのであ。そのそのそのこの通りのいてしまった心理遺伝論のおして、そのまルルャの細胞の大学のまルの大学のまして、そののであろうとなっているのであろうとして、このましていたかのであろうとしていたので、そのところの最郎の最をけているのであろうとして、そのまして、そのまして、その最をけているのであろうとしているのであろうと、切り換え、継ぎ直させられ・・ぁ・・ぁ・ぁぺぁぁ・ぁぁぺぁ・・ぁぁてぁぁぁ・ぁぁぁぁ・ ぁ・ぁ
Written by AI

2019年2月4日月曜日

富士山の錯視(月の錯視考)

日吉から見た富士山
上の写真は慶応大学日吉キャンパスからの富士山です。山影から白頭がひょっこりと顔をだしています。

写真を撮ってみて「あれれ?」となりました。目に映っていた富士山はもっと巨大だったからです。視野と写真の画角はそれほど変わらないのに、実際に見える富士山と写真の富士山のサイズは印象がずいぶん違います。ここでは「富士山の錯視」と呼ぶことにしましょう。

水平線上にあるものが大きく見える錯視で有名なのは「月の錯視」です。
https://en.wikipedia.org/wiki/Moon_illusion
天頂にある月と水平線上にある月では、ずいぶんサイズが異なります。太陽でも同じことが体験できます。

「月の錯視」が起こる原因には諸説があります。が、「富士山の錯視」のように、水平線上の遠くにあるものであれば何でも大きく知覚される錯視とすれば、「月の錯視」も、その恩恵を受けているはずです。そうなると、これらの現象は「水平線上遠方にある物体が相対的に大きくみえる錯視」と汎化できます。

水平線上には比較できる対象物が近いところから遠いところまで連続してあるため、奥行きが推定しやすくなっています。そのため、水平方向へは遠くにあるもへ「ズーム」を効かせやすくなっているのかもしれません。

「富士山の錯視」は夕刻になっても変化しませんでした。夕日に浮かび上がる富士山はまるで影絵のような美しさでしたが、サイズ感はそのままだったのです。なかなかシブトイ錯視です。富士山は見える範囲が非常に広大です。ぜひお試しくださいませ。

2019年1月31日木曜日

脳は作ればわかる(実装主義)

この記事
https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2019/01/29/225106
とてもよく議論されてます。

ただ、
一点足りないのは【作ればわかる】という観点です。

この記事の『LSI(Large Scale Integration、大規模半導体集積回路)が、これまでの神経科学的方法では理解できないだろう』は至極真っ当な意見です。LSIを顕微鏡で観察してもLSIの動作原理は理解しがたいことでしょうし、LSIに電極を刺して電気特性を観察したとしても、理解への道筋が困難を極まるのは容易に想像できます。

この意見に対しての反論として「作ればわかる」を推しておきます。LSIがどれだけ複雑怪奇な代物であったとしても作ることができれば理解したことになります。これまで神経科学が「作る」という手法を主流にしてこなかっただけです。時代はかわりました。「作る」という方法論を従来の観察に加えることで、「見る」と「作る」の間で相互循環が始まっています。

最近おもうのですが、これまで多くの脳科学を研究する者に欠けていたのは「当事者意識」のような気がします。自分たち自身が観察対象になっているという事実です。人間とは面白いもので、今目の前で観察対象としている脳と、観察している自分の脳を切り離して考えることができます。脳を本気で知ろうとするとき、この安全装置が邪魔になります。いまのいままで「作る」を妨害していたのは、技術的問題だけではありません。

ディズニーランドは極めて精巧に世界が閉じています。入場者はディズニーランドにいるあいだ外界と遮断され、ディズニーランドが奏でる物語に浸りきって暮らすことができます。だからこそ楽しいのです。人は皆それぞれの物語を大切にしているディズニーランドの住人といえます。科学者といえど人間です。自分の大切な物語に傷をつけようとする行為には、どのような理屈をつけてでも反抗します(僕はディズニーランド効果と呼んでいます)。

本来、科学者というものは、ディズニーランドの外にいて「そこはディズニーランドですよー!」と呼びかける無粋な人たちです。科学者は人間が作り上げたディズニーランドが偽物の世界であることに気づいてしまった人たちです。

科学者は真実の世界を知るために施設の外に出てしまったのです。そこには共通のルールも倫理すらもないのでとても孤独な世界です。でも、その代償として無限の自由を手に入れることができます。なんの足かせもない世界で、ディズニーランドでは気が付くことのできない真実を発見することができます。だからこそ、科学が突き付ける真実はいつも無粋です。

しかしそうは言っても、科学者も人の子。大なり小なりディズニーランドの住人を脱することはできていません。時には、ディズニーランド効果という言葉にピンとこない可能性すらあります。

川端康成がノーベル賞受賞記念講演で一休和尚の言葉として引用した「仏界入り易く、魔界入り難し」。仏の道に入り、仮に仏の教えを知ったところで悟りきれない、その先にはさらに正体不明の闇である魔界が待つとされています(本来の魔界の意味とは異なります)。真の文学者はそこまで踏み込んでいかねばならない、すべての世界を描ききることを文学の使命とした川端の重い言葉であり、川端文学の神髄を現しています。魔界とは、ディズニーランドの外の世界のことかもしれません。

はたと、一部の科学者がこの事実に気がつき、本気で脳を作り始めたとき、神経科学や脳科学は急激な進歩を始めるのかもしれません。


Yasunari Kawabata (Wikipedia)

この記事には続きがあります。

【脳は作って使えばわかる】
https://eijikiwako.blogspot.com/2019/02/blog-post_28.html

2019年1月7日月曜日

天才たちと人工知能

科学の歴史は、人類が自分自身を知る歴史です。誰かが何か発見をすると、知識がひとつ手に入ります。そのたびに人類に纏わりついていた幻想や妄想が消え去ります。時には、常識とはあまりにも違う知識を突き付けられ、社会に大きな動揺が走ることもあります。

天文学上最も重要な発見のひとつであるとされる「地動説」も、その一つです。説を提唱したコペルニクスは天文学者ですが、カトリックの司祭でもあります。宗教のど真ん中にいた人物からの提言に、なにやらクレイジーな凄みを覚えます。そのとき信じられていた既成概念に「NO」と言い切ったコペルニクスには畏敬の念しかありません。「自分たち中心」の世界観から「相対的な自分」への大転換は、多くのひとの人生観を揺さぶったことでしょう。いまや膨大なの天文データによって、宇宙の端から端までの地図が作られています。

物理学上最も重要な発見のひとつであるとされる「相対性原理」も、その一つです。アインシュタインの頭の中で熟成した驚異の仮説は神がかり的です。小さな矛盾を無視することなく突き詰め、ついには大きな常識を覆しました。時間や空間が均質で一定であるという常識は消え去り、人間は自分たちの住む世界が内包していた底抜けの深遠さを知ることになりました。その後台頭してきた量子力学も相まって人が抱く世界観は大きく揺さぶられます。それでも人類は逞しく、新しい発見を応用して社会を発展させてきました。

生物学上最も重要な発見のひとつであるとされる「DNA二重らせん」も、その一つでしょう。発見の過程がどれだけクレイジーなドロドロ劇だったとしても、その科学的価値に傷がつくことはありません。ワトソンとクリックが発表した美しい2ページの論文は科学史の金字塔です。生命の神秘さや不可思議さは消え去り、極めてシンプルで美しい定理に置き換えられました。ついに人類は、自分たち生命が何者であるかを知るに至ったのです。

もし、クレイジーな誰かが「ドラえもんのような汎用人工知能」を生みだしたとしたら。

それは人の常識をこれまで以上に大きく揺さぶることでしょう。しかし、それは自分たちが何者であるかを知る切っ掛けになるはずです。そのとき初めて人は等身大に生まれ変わるのかもしれません。

社会の枠組みに入りきらない天才たちの歴史的大発見は大きく社会を揺さぶってきました。しかし、結果的には、それらの知識はとても大切にされています。人類は転んでもただでは起きません。

真実は人を裏切りません。真実の価値は、人類にとって何よりも替えがたいのです。