人は自分なりの「価値、物語、そして意味」を創り上げ、
そして、自分が生活をしている世界を理解している。
価値が一番である。
人は初めは本能に従って「生きる」に価値を置くが、
成長するにつれ、研究することに価値を見出したり、
家族に価値を見出したり、
お金に価値を見出したりする。
始原的な価値は物語とともに
二次的な価値に変遷する。
人は価値に従ってそれぞれが世界の物語を作り上げる。
価値と物語はニワトリとタマゴであり、どちらかが先ではない。
共に成長する。結果として、
すべての事象は物語に組み込まれ、
すべては意味をもつこととなる。
物語の組み立て次第では始原的な価値にも変更が加えられ、
最終的には確固たる各自の物語ができあがる。
物語は真であり、物語の外の世界は偽である。
このようにして人は世界を理解する。
物語が安定し多くの人が共有すれば人も社会も安定する。
しかし、異質な物語は無限に存在する。
「自然」は、本質的に「価値、物語、そして意味」を持たない。
自然を相手にしている「科学」も同じくである。
科学は、時に人の物語を不安定にし、人を揺さぶる。
そして、
自然も科学も本質的に安定することはない。
科学が提供する真実のようなものは、
人の物語にとって真実ではない。
人が自然や科学に対して感じる不安感はこのようなところから来る。
人は真実を知りたいのではなく、安定した物語を求めている。
このように考えると、
人や社会がなんであるか、
朧気ながら見えてこないだろうか?
では、わたしも含めて科学者の役割は何であるかと言うと、
あまりにも物語が安定し過ぎて社会に活力がなくなってきたときに
エネルギー源としての不安定要素を供給することではないかと、
思う次第である。
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