2020年6月19日金曜日

キャプテン・ビーフハート 最後のアルバム「Ice Cream For Crow」

キャプテンの最後の作品『Ice Cream For Crow』は、1982年に発表されている。

1982年には、殿下の『1999』が発表されているし、



マイキーの『スリラー』も発表されている。


いまでは考えられないが、その頃のMTVは超保守的で、黒人音楽家の作品を放映していなかった。しかし、マイキーの『ビリー・ジーン』によって、その掟は破られる。

そんなMTVではあったがために『Ice Cream For Crow』の放映は拒否された。時に先進性は奇異と捉えられ、保守的な人を怯えさせる。下のビデオをご覧いただいて判断いただきたい。これは音楽だろうか、アートだろうか、それとも単なる奇異だろうか。




私は、キャプテンが追及した世界は消費される音楽ではなく、キャプテンにしか創れないアートであったと考える。キャプテンの曲は時代が流れても古びることはなく輝きを増す。

キャプテンは『Ice Cream For Crow』を最後に音楽を引退するが、『Ice Cream For Crow』のミュージックビデオは芸術家たちを唸らせ、ニューヨーク近代美術館の所蔵となった。

同じ土俵に立っているからといって、皆が必ずしも同じベクトルで仕事をしているわけではない。


追記:
では、殿下はどうなのかというと、
こちらは紛れもないミューズである。
音楽の化身であり、音楽の神である。

もし殿下をあまりご存知のないかたは、
『Purple Rain』を見たあとに、
『Montreux Jazz Festival 2013 - 3 Nights, 3 Shows』
をご覧いただきたい。

Jazzになろうが、どんな形式になろうが、
殿下は殿下であり、神は神である。
音楽の本質は、形式ではない。

2020年6月1日月曜日

名作を最後の一文で味わう会

名作は最後の一文で決まる。
本会は名作を最後の一文で味わう同好会である。

どんなによくできた小説でも、最後の一文が決まらなければ駄作である。いや、よくできた小説なら、最後の一文は自然と神がかってくるはずだ。そういうものだ。具体的にみていこう。

羅生門:芥川龍之介
【下人の行方ゆくえは、誰も知らない】
決まりに決まっている。典型的な突き放し系。突き放すことで書きもしていない物語を読者に提供することに成功している。小説の舞台を巨大化させる装置となっているのだ。

女生徒:太宰治
【もう、ふたたびお目にかかりません】
さすがに芥川に憧れる太宰である。この「他人の日記丸パクリ文学」に、羅生門風の突き放し系を加えることで不朽の名作を作り上げた。ちなみに、この最後の文に至る前文は【おやすみなさい。私は、王子さまのいないシンデレラ姫。あたし、東京の、どこにいるか、ごぞんじですか?】である。脱帽。

人間失格:太宰治
【神様みたいないい子でした】
おなじく太宰治。どんでん返し系である。人間を失格した人間に対して神様の評価を与えることで、小説を哲学の高みに持ち上げた。厳密にいえばどんでん返しではない。ふつふつと見え隠れする主張が、最後の一文で爆発したともいえる。中身もとんでもないが、ラストもとんでもない小説である。

ドグラマグラ:夢野久作
【……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………】
小説の出だしとほぼ同じループ系。読者はもはやこの世界から逃れるすべはない。

坊ちゃん:夏目漱石
【だから清の墓は小日向の養源寺にある】
これは何系なのだろうか。清は物語としてはサブ的な存在である。それでもこのラストによって坊ちゃんの暖かさが伝わり、読者は坊ちゃんへの親近感をもつことになる。清が主人公的な存在のようにも思えてくる。しかも、清は漱石の敬愛する人物のおばあちゃんであり実在した人物である。本当に清の墓は小日向の養源寺にあるのだ。文章が小説の世界と現実の世界を繋ぐトンネルのような役割をしている。深い。私が世界一好きな最後の一文である。ここで使われた「だから」は日本文学史上最も美しい接続詞と称えられている。私もそう思う。

こころ:夏目漱石
【妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい】
このラストが名作にふさわしいのか、ふさわしくないのか、評価がわかれるところかもしれない。最後の最後まで先生は先生であったとするのであれば、たしかにこのラストしかないような気がする。もっと簡潔に書けたような気もする。本体も含めて私自身の評価が定まっていない作品である。

伊豆の踊子:川端康成
【頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった】
なにも言うことはない。ラストの一文と言えば川端康成である。川端系としかいいようもない。掌の小説という短編群を読めば、川端系の恐ろしさは実感できる。

古都:川端康成
【町はさすがに、まだ、寝しずまっていた】
苗子が古都に溶けていく。「まだ」の後に打たれた「、」は議論のあるところであるが、私は川端がこの物語に対する心残りのような「、」と読み取った。

山の音:川端康成
【瀬戸物を洗う音で聞こえないようだった】
これが菊子と信吾の距離なのだ。菊子の透明感、というか、この家族のバラバラ感。たまらんですな。

雪国:川端康成
【そう叫ぶ駒子に近づこうとして目を上げた途端、さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった】
言語がここまでの表現ができるのかと、もはや恐怖を感じるレベルに達している。天の川が人のなかに入ってくるという表現は、いったい何を食べればでてくるのか。川端系のなかでも最高峰に位置するラスト一文。私が世界で二番目に好きな最後の一文である。

もし会員のみなさんで推しのラストがありましたら、コメント欄にどうぞ。