すでにアマゾンに書かせていただいた。
内容については一切触れていない。
ただ読むべしという推薦文である。
不朽の名作だ。私としてはこれで十分と踏んだ。
しかしふとネットの書評を流してみると、
ネガティブなレビューが散見される。
もちろん良し悪しの判断はそれぞれでいい。
ただ雪国の価値が皆目伝わっていないのはあまりにも悲しい。
雪国を至高の芸術であると信じて疑わない私としては歯がゆい限りだ。
雪国の解説は幾千の猛者たちがすでに書いているので、
これ以上は、とも思ったが私は私なりの雪国がある。
それを伝えたい。
ちょうどインフルエンザにかかっている。
身動きがとれない今しかない。
さて、
小説のあらすじは一文で終わる。
「東京に妻子ある島村が、雪深い温泉町の芸者駒子と恋愛をする話」である。
読んでないひとからすれば、なんじゃそれ?だろう。
しかし、マジそれだけなのだ。
文庫本で148ページ、年月にして2年以上、
8回に渡って書き分けられ、湯沢越後への取材も敢行、
なんと駒子のモデルも実在する小説のあらすじが、
たったの一文で表現できるのである。
すでにこの時点で薄ら寒くなるではないか。
では、とんでもない事件が次々起こるのかと言えば、
あなたのご想像の通り、ほとんどなにも起こらない。
話が展開するに連れて駒子の境遇がわかってきたりするが、
それらに物語を変えるような決定的な影響力はない。
唯一の事件的な要素と思えるのは
当初駒子の同居人であった葉子である。
葉子は駒子のリファレンス的存在であり、
雑誌を越えて書き分けられた小説全編を貫く芯棒になっている。
しかしこの芯棒は雪国を物語として引っ張るには必要だが、
島村と駒子の運命に影響するまでの装置ではなさそうだ。
では、
徒労に終わりそうな二人の苦しい恋、
きっといつの時代でもどんな場所でも
起こるであろうありきたりなテーマで、
川端はいったいなにを描いたのだろうか。
あの有名な書き出しから読み解いてみる。
【国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。】
マジでエグい。この小説にこれ以上の書き出しはない。私が小説家を目指していたなら、読んだ瞬間に目指すのを諦めるレベルである。
出だしの三文は俳句、短歌のような行間の広がりをもつ。
一文目。国境を越えて大きな変化をもたらすことで、この小説への入り口としている。トンネルがその扉だ。同時に、この小説の登場人物が雪の降らない都会から、雪の降る田舎町へ旅行をしてることを匂わせている。この匂いだけで大いに想像を掻き立てられる。最小限の情報だけを送り出すことで、あとは読者の知性に委ねる。この行間の大きさが、川端文学を行間文学と呼ばせる所以だ。季語は冬だ。
二文目。前文の世界観を継承する同時に、時刻が相当遅いこと、どうやら今は雪が降っていないこと、街明かりもたいしてないこと、底抜けの静寂など、読者の想像を掻き立てる。文章を短くした分、さらに行間が広い。またここで、色がこの小説のひとつのテーマになっていることを暗示する。小説全編に渡って色は巧妙な小道具として使われる。雪国は色の小説と言ってもいいくらいだ。川端はとことん視覚に訴えかける。
そして三文目の汽車だ。急に空間と行間が狭くなり、あ、これは映画のような視覚的表現、カメラワークになっていると気がつく。最初の雪国という広角の視点、次に白い底で視点を地面に降ろし、最後に点のように小さな汽車に意識を向けさせられる。読者は自然と汽車のなかに入り込んでゆく。あまりにも巧みな構成だ。
しかも、この一連の広角と狭角の視点切り替えによって、人が大自然に包まれている存在であることを暗示させる。このスタートダッシュで、川端の描きたくてたまらない人と自然という日本古来からの大テーマが見事に含まれているではないか。駒子と島村の恋愛も大自然と紐付けされていくし絡め取られてもいくし、それが厳しくも愛らしく感じられ、最後の最後にはテーマごと天の川に引きとらせる。男女の心の微細な動きまでが、行間に落とされて広げられ、大自然と同化させられていく。なんという独創的な。それでいて異質さがない。
どうだろう。最初の三文でこの始末である。いやいや最初だけでしょこんなのは、と思われた方は甘い甘い。全編である。雪国はわずか148ページの短い小説だが、読者の知性と経験に応じて無限に膨らむ可能性のある作品なのである。なんということだ。こんなことではいつまでたっても解説は終わらない。
では、もうひとつだけ。物語中にときおり現代への向けての示唆的な表現がでてくる。これが面白い。例えば、駒子と島村の会話。
【「分からないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」「なにもかも散っちゃってるよ。」「今に命まで散らすわよ。・・・・。」】
なにかを言い当てられているような気がしてドキッとさせられる。駒子は美しく純粋であるが故に恐ろしいセリフを吐く。
雪国の価値がすこしでも伝わっただろうか。
語りだすときりがないので、あとは自分なりに噛み締めて欲しい。もし、一度読みかけて詰まらないと諦めたひとなら、136ページ【突然擦半鐘が鳴り出した。】からリスタートしたいところだ。小説は、あと12ページを残すのみである。ここからの疾走感、そして最後の最後に時間の流れは見事に制御され、幕を閉じるのを惜しむようなスローモーションが演出され、島村と駒子の物語は大宇宙に融合させられていく。この浮遊感はもはやこの世のものではない。
雪国は星の数ほどある宗教書や哲学書よりも、大切なことをあなたに伝える力を持っていると信じる。もしインフルエンザで寝込んでいるようでしたら、是非お読みいただきたい。
病床にて。
EW
【国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。】
マジでエグい。この小説にこれ以上の書き出しはない。私が小説家を目指していたなら、読んだ瞬間に目指すのを諦めるレベルである。
出だしの三文は俳句、短歌のような行間の広がりをもつ。
一文目。国境を越えて大きな変化をもたらすことで、この小説への入り口としている。トンネルがその扉だ。同時に、この小説の登場人物が雪の降らない都会から、雪の降る田舎町へ旅行をしてることを匂わせている。この匂いだけで大いに想像を掻き立てられる。最小限の情報だけを送り出すことで、あとは読者の知性に委ねる。この行間の大きさが、川端文学を行間文学と呼ばせる所以だ。季語は冬だ。
二文目。前文の世界観を継承する同時に、時刻が相当遅いこと、どうやら今は雪が降っていないこと、街明かりもたいしてないこと、底抜けの静寂など、読者の想像を掻き立てる。文章を短くした分、さらに行間が広い。またここで、色がこの小説のひとつのテーマになっていることを暗示する。小説全編に渡って色は巧妙な小道具として使われる。雪国は色の小説と言ってもいいくらいだ。川端はとことん視覚に訴えかける。
そして三文目の汽車だ。急に空間と行間が狭くなり、あ、これは映画のような視覚的表現、カメラワークになっていると気がつく。最初の雪国という広角の視点、次に白い底で視点を地面に降ろし、最後に点のように小さな汽車に意識を向けさせられる。読者は自然と汽車のなかに入り込んでゆく。あまりにも巧みな構成だ。
しかも、この一連の広角と狭角の視点切り替えによって、人が大自然に包まれている存在であることを暗示させる。このスタートダッシュで、川端の描きたくてたまらない人と自然という日本古来からの大テーマが見事に含まれているではないか。駒子と島村の恋愛も大自然と紐付けされていくし絡め取られてもいくし、それが厳しくも愛らしく感じられ、最後の最後にはテーマごと天の川に引きとらせる。男女の心の微細な動きまでが、行間に落とされて広げられ、大自然と同化させられていく。なんという独創的な。それでいて異質さがない。
どうだろう。最初の三文でこの始末である。いやいや最初だけでしょこんなのは、と思われた方は甘い甘い。全編である。雪国はわずか148ページの短い小説だが、読者の知性と経験に応じて無限に膨らむ可能性のある作品なのである。なんということだ。こんなことではいつまでたっても解説は終わらない。
では、もうひとつだけ。物語中にときおり現代への向けての示唆的な表現がでてくる。これが面白い。例えば、駒子と島村の会話。
【「分からないわ、東京の人は複雑で。あたりが騒々しいから、気が散るのね。」「なにもかも散っちゃってるよ。」「今に命まで散らすわよ。・・・・。」】
なにかを言い当てられているような気がしてドキッとさせられる。駒子は美しく純粋であるが故に恐ろしいセリフを吐く。
雪国の価値がすこしでも伝わっただろうか。
語りだすときりがないので、あとは自分なりに噛み締めて欲しい。もし、一度読みかけて詰まらないと諦めたひとなら、136ページ【突然擦半鐘が鳴り出した。】からリスタートしたいところだ。小説は、あと12ページを残すのみである。ここからの疾走感、そして最後の最後に時間の流れは見事に制御され、幕を閉じるのを惜しむようなスローモーションが演出され、島村と駒子の物語は大宇宙に融合させられていく。この浮遊感はもはやこの世のものではない。
雪国は星の数ほどある宗教書や哲学書よりも、大切なことをあなたに伝える力を持っていると信じる。もしインフルエンザで寝込んでいるようでしたら、是非お読みいただきたい。
川端康成:Wikipediaからの転載 |
病床にて。
EW