2015年10月23日金曜日

ドラえもんの「こころ」

to TN

ドラえもんはたいへんな居候です。

 ロボットなのにご飯を食べるし、おやつのドラ焼きも要求します。寝室として押し入れを占拠し、トイレにも行きます。家賃を払っている気配もありません。

 それにも関わらず、ドラえもんは家族の一員として温かく迎えられています。のび太の家族だけではありません。ドラえもんは地域でも一住民として違和感なく溶け込んでいます。ジャイアンもスネ夫も静香ちゃんもドラえもんを友人として接しています。外見は二足歩行っぽいし、二本の手を操るので、人型と言えば人型のロボットですが、色もプロポーションも人間からはほど遠いものがあります。有機物質でもありません。それでもドラえもんはあたかも人のように扱われているのです。

 というか、人そのものです。特殊な外観、四次元ポケット、原子エンジン、スーパーコンピュータ的な頭脳、工場で作られたなど、すなわち、ロボットであるという事実をすべて取り払ってしまえば、人と何の区別もつきません。悲しいことがあれば泣きわめくし、楽しいことがあれば大喜びするし、ジャイアンがコンサートを開催すればのび太と一緒になって目を回すし、忘れっぽいし、情に厚いし、逆にロボットらしいところが見当たりません。

 明らかに、藤子・F・不二雄はドラえもんを人として描いています。ドラえもんを人のこころをもつ存在として描いているのです。よく欧米のSF映画や小説などで人と機械の狭間にいる微妙な存在としてのロボットが登場しますが、その意味においてドラえもんは突き抜けています。この種のロボットが内包しているはずの哲学的苦悩を感じさせません。

 無論ドラえもんは架空の存在です。現実世界であのロボットを生み出すことは未来永劫不可能でしょう。しかし、実現性は議論のボトルネックではありません。のび太は有機体。ドラえもんは無機体。しかし、両者は心をもつ知性体という設定。仮に無機体でありながら心を持つ知性体が現れたとしたら、それは対等の友人になるだろうというイマジネーションが重要なのです。ハードウェアの種類がこころを規定しているのではないという帰結。木で作った船も、鉄で作った船も船である。藤子・F・不二雄の考えるこころの世界とは、そのようなものなのです。

 もしドラえもんがこころをもつのであれば、誰もドラえもんを殺めることはできません。こころをもつドラえもんは人と同じだけの生きる権利をもっているのです。もし無機物であるという理由によって、ドラえもんが生きる権利をもたないのなら、それはとても悲しい結論を招くことになります。逆を想像すれば分かります。僕たちの生きる権利は身体が有機物でできているからという理由だけで保証されているのでしょうか?

 人の本質が有機物にあるという結論は単純過ぎます。人の本質がこころにあるとするのならば、生きる権利もこころによって支えられるはずです。ドラえもんという存在の本質はこころにあります。それを現代風に『情報』と言い換えてもいいでしょう。情報を支えているロボットの身体は必須ですが、その金属の筐体がドラえもんの本質ではないのです。存在の本質は情報の側にあります。

 ひとつ簡単な例を挙げてみましょう。スマホに家族の写真が詰まっていたとします。どこにもバックアップをとっていなません。そんな状況でスマホが壊れてしまいました。スマホという機能をもつマシンはまた買えますが、大事な家族の写真は二度と手に入れることはできません。この場合、スマホの存在の本質は代替の効く筐体にあるのではなく、唯一無比の家族との時間という情報にあったのです。工場で大量に作られているドラえもん型ロボットですが、のび太の親友であり得るのは『あの』ドラえもん、ただ一人です。

 藤子・F・不二雄は、いくつかの作品で同じ設定を試みています。オバケのQ太郎であったり、怪物くんであったりです。ドラえもんとのび太という組み合わせは、オバQと正太、怪物くんとヒロシになります。

 特にオバQの友情の厚さは有名です。オバQは犬が大の苦手。見るのはもちろんのこと触ることなんてとんでもないことです。ある日、親友の正太君が金持ちの友人のオモチャを欲しがりました。でも友人は貸してくれません。オバQもその友人に貸してくれるように頼むに行きます。するとその意地悪な友人は「犬の背中に一日中乗り続けろ。出来たら貸してやる」といいます。オバQが大の犬嫌いという事実を知った上での理不尽な要求です。オバQはそれでも「正太君のため正太君のため」と泣きながら犬に乗り続けます。泣きながら朝から晩まで乗り続けるのです。それを見た正太君は号泣。この優しい人のこころをもつ白いおばけの内側に、人、そして生命の本質が隠されています。

 下手をすると世間では嫌われるロボットや怪物やお化けを隣人として、そして真の友人としてとり扱う世界。それは手塚治虫の鉄腕アトムからの伝統なのかもしれません。ウォルト・ディズニーが日常生活で嫌われているネズミを主役に仕立てた想いにも通じます。見かけや出自による偏見を廃した世界、そしてこころの本質を子供達に問いかけているのです。藤子・F・不二雄が僕たちに伝えたかったことは明快です。『ドラえもんはロボットだけど僕たちの仲間です。オバQはおばけだけど、僕たちの仲間です。外見や生まれが本質ではないのです。隣人の本質を見抜く力をしっかりと磨いてほしい』と。

大賛成です。物質ではなく情報に焦点を移すと、見える世界が変わってくるのです。

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